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この劇に出てくるキャラクターはどれも個性的だ。たとえば恭子、高校には通わずフリーターをしているが、そんな自分を恥ずかしく感じている。学校が無くなればいいと思っているあかねとその友人みか。二人の仲の良さは、台詞回しや、演技で上手く醸し出されていた。人とのコミュニケーションを上手くとれない栄一郎。それぞれの悩みを持つ彼らはどんな願いでも叶う列車、星の汽車に乗ろうとして『天河駅』で出会った。三人はそれぞれもっともらしい理由を言ってはいるものの、結局は悩みから逃げてしまいたいだけなのだ。そんな彼らにあかねの友人みかは言う、「逃げちゃ駄目です」。
舞台上にはベンチと看板と七夕の笹だけ。とてもシンプルであるのに、四人が登場するだけで駅のプラットフォームになってしまうのが不思議であった。
この劇が伝えたかったのは、みんなそれぞれに悩みを持っているけれども、それから逃げては駄目だということだと感じた。世の中には楽しいことやうれしいことだけでなく、つらいこと、逃げ出したくなることもある。けれどもそれから逃げてしまったら、私たちは何をするのだろう。逃げて逃げて、ただ自分のやりたいことに没頭するだけなのであろうか。そんな人生はきっとつまらない、悩みを抱えていてもそれを乗り越えて生きていくのが人生というものではないだろうか。この劇はそんなことを考えさせてくれた。
特に私たちの心に強く響いたのは、あかねの悩みなのではないだろうか。同じ高校生として、学校に行きたくないというあかねの悩みは共感できる人も多いと思う。電話シーンで先生の心の声、「学校に来い」という言葉がどんどん大きくなっていくのが印象的で、観ている自分たちが追いつめられていくように感じた。
今回のこの劇全体を通して、現実から逃げるのではなく、現実と向き合い、問題と真正面からぶつかり、そして乗り越えることが大切だというメッセージが伝わってきた。私たちもそれぞれに悩みを抱えているが、「逃げずに前を向こう」、そんなことを思わせられる劇であった。
金沢学院東高校の皆さん、お疲れ様でした。
この劇はオレオレ詐欺やブラック企業、スマートフォンなどといった身近なことを題材としている。そのため私達にとって理解しやすく、親しみやすい作品だった。親に頼ることができないマコト、娘との仲がぎくしゃくしているハナエ、この二人のそれぞれの問題が最後には解決し、観る側に家族や大切な人とのコミュニケーションの重要性を伝えているのではないだろうか。
マコトは先輩に勧められ空き巣をしようとしていたが、スエやハナコと話していく中でヘルパーだと嘘をついていた自分を見つめ直し、正直にだましていたことを白状し謝る。人と人が直接関わることの少なくなってきた現代社会で、直接会話することの大切さを伝えてくれる暖かい話だった。黒電話とスマホ、時代は異なるものの、人と人とをつなげるという本来の機能の面から捉えれば同じである。同様に、若者と高齢者、関わることは少ないが、それぞれにつながりを欲している点では共通しており、コミュニケーションを取ることによって、心を開き相手を理解できるということが、伝わってきた。
演出面でも様々な工夫がなされていた。マコトの会話口調から「です・ます」調が消えるシーンでは、彼の本音が感じられた。座椅子が一つしか用意されていないところからは一人暮らしの老人の孤独、孫の写真が何年も前であるところからは娘との不仲が伝わってきた。
劇全体を通して、時代が変わっても、世代が異なっていても、人と人が面と向かって直接関わり合うことの重要性が伝わってきた。人は誰でも一人では生きていけない、誰かに支えられ誰かを支えることが必要である。スマホを現代の黒電話として生かしてみたいと思わせる劇であった。
金大附属高校の皆さん、お疲れ様でした。
『3月は雪か桜か』という劇の題名、"雪"は冷たいイメージ、"桜"は暖かいイメージを与える。それは、人間の心、"生"と"死"を意味しているのではないか。
卒業の記念にと夜中の高校に忍び込んだ卒業生のコトミ・トモ・ユウコ。ユウコがトイレに行っている間に、コトミとトモがいたずらでユウコのかばんの中を探ると、遺書が見つかる。友人の遺書を見てしまったコトミとトモ、同じく学校に忍び込んだサラリーマンのヨシヒト、よりによってたまたま当直だった新任の国語教師の4人が、なんとかユウコの自殺を止めようと、「生きる」ことについて話し始める。どんな人にでも1つや2つは悩みがあり、それは様々。その悩みにそれぞれ向き合っていく登場人物から、「生きる」ことの辛さ、喜びを感じた。この劇は、"「生きる」とは何か"という疑問を、観ている人に投げかけ、それについて深く考えるきっかけを与えてくれた。
「生きる」とは何か。「生きる」とは、いろいろな悩み、不安、期待から逃げたいと思いながらも、必死に逃げずに頑張っていること。「生きる」とは、悩みながら、考えながら答えを見つけ出していくこと。どれだけ考えても、1つの答えにたどり着くことなどないが、この劇がそこまで考えさせるきっかけとなるのは確かだ。「生きる」という、人間誰しもが持っている悩み、難問に、万人共通の明解な答えなど無いのだろう。しかし、悩み考え続けることでじわじわと消化されていくものなのではないか。
ユウコの死を止めようと、自殺を否定しているコトミや先生、ヨシヒトが言っている言葉は、「いつか」や「きっと」「夢」など、ちゃんとした形のないもの、あいまいなもので成り立っている。ところが、トモや、説得しているうちに死を肯定し始めたヨシヒトは、大学受験失敗、毎日の仕事の大変さなど、辛いけれども確かな自分の経験に基づいている。だから、言っていることには説得力がある。しかし、だからといって正しいとは言えないのだ。
登場人物同士の位置関係も興味深かった。ユウコとトモがベランダで話し合っているシーン、初めは微妙に離れていた2人の間の距離が、次第に近くなっていく。劇のクライマックス、5人が舞台に立ったとき、それぞれの人との間隔は均等だった。舞台終盤は年齢など関係なく、みんなでユウコの死を止めようと必死になっていた。これは、物理的距離が精神的距離をも表していたのであろう。
また、「友情」についても考えさせられた。学生時代から見知っている、同じ部活で共に頑張ってきた、年長者の固く、揺るぎない友情。それに比べれば、高校を卒業したばかりの若者の壊れやすい、もろい友情。だが、3人は、互いの価値を認め合い、相手のために出来ることをしようと、友情を確かめあい、確かなものにする。
劇全体を通して、「生きる」ことについてはもちろん、友情、人生など、切実だが難しい、様々なテーマを扱っていて、とても考えさせられた。
尾山台高校の皆さん、お疲れ様でした。
誰もいない電車の中で、目覚める主人公の蛍。そこには流という男が一人いた。かまってほしかった、自分を見守っていてほしかった父親が突然死に、本音が言えずうらんでいる蛍。しかし、流と話すうちに蛍は自分の正直な気持ちに気づくのだった。現代人の多くがむしろ面倒くさいと感じる他者とのまじわり。しかしそれが実はとてもやさしいものであるというメッセージが、じんわりと伝わる作品だった。
有名な小説「銀河鉄道の夜」に材を取り、現在の蛍がジョバンニと、昔の蛍がカンパネルラと重ねて表現されている。劇中では「僕」と「ジョバンニ」との立場が切り替わる場面が多くあり、その切り替わりのタイミングが作品に引き込まれる要素のひとつだった。いわば、主人公役は「僕」と「ジョバンニ」の二役を演じているようなものである。これは演じ分けという意味では、かなり難しい役どころではあったが、見事に「僕」と「ジョバンニ」をシンクロさせていた。また、台詞では「僕」と「私」が使い分けられていて、本音をいえない自分と言える自分を表現していた。
電車内での、主人公とのボケと突っ込み。テンポよく会話が流れ、後半に進むにつれ、主人公の心の闇を中心とした話に発展する間も、会話の受け答えが小気味よい。すべて見終わった後「ああ、なるほどね。この二人の関係はこうだったんだ。だからあんなに似たもの同士な二人なんだね。」と納得させる、そんなセリフのやり取りの自然さがじわじわと効いてくる。会話の絶妙さ、それがこの作品の最大の魅力だ。
感情が高ぶって「嫌いだッ」とわめく主人公、淡々と「でも本当は?」とたずねる少年。あくまでも淡々と、相手の激情にながされることなく、受け答える少年。そして「本当は大好きなんだ」という主人公も一番言いたかった言葉を、少年は引きずり出す。一番印象的なシーンだった。自分をずっと見守ってくれる人の優しさ、だからこそ本音を言葉にして伝える大切さ。人と人をつなぐ「言葉」、そんな「言葉」の大きさ、意味を改めて考えさせられた。
タイトル「23.4度にあなたは居る」の微妙で曖昧な角度「23.4度」とは、人と人との心のすれ違いを表しているのではないか。そして、「あなた」とはきっと自分の大切な人を表しているのだろう。「大切な人といろいろあり気持ちがすれ違って、相手に見捨てられたなどと思うときがあるかもしれないけど、ほんとうは、どこからでも見える北極星のように、誰よりも一番あなたをずっとやさしく見守っているんだよ」。暖かなメッセージが、タイトルからも伝わって来る。
県立工業高校の皆さん、お疲れ様でした。
上演が始まるとともに幕の前に出て来て意味深な会話をし始めた二人の少女達。この劇では、まさにタイトルであるところの、「青春」という身近なようで曖昧なものの正体、そして、それに対する「法度」とは何なのかについて、考えさせられた。
「青春」とは何なのか。青春とは具体的なものではなく、自分が一番輝いていると思える時を指すのであろう。また、劇中で優子が「引きこもりだって青春。」と言っていることから「青春」とはこれが自分と胸を張って言える瞬間なのではないか。そして「法度」とは青春を縛りつけるものである。それは一輝にとっては優子に対する憧れだったのだろう。
演出面に関しては、テンションの高いシーンや少しシリアスなシーンと、対比的であるが故に際立つキレの良いシーンが次々と展開していき、観ている側はいつの間にか劇の世界に引き込まれた。舞台の使い方についても、過去のシーンと現在のシーンとで中割幕を使って区切っていた点が、観客側にも時の変化が分かりやすくて良かった。また、場面転換が自然であったため、集中力を切らすことなく最後まで観劇できた。キャスト一人一人の役も充分に作り込まれてあった。何より劇全体にとても勢いがあった。照明の使い方も背景色に頼りすぎることなく、飽きさせないものとなっていた。
装置に関しては、私達が普段学校で使用している生徒用の机と椅子を置き、共感しやすいものとなっていた。更に、その真ん中に置かれることで「青春法度」の文字がより強調されていて、この言葉とストーリーとの関連性がより深いものだと感じられた。
ラストシーンで「青春」という字を一輝が壊す。このことによって彼にとっての青春法度を打ち倒すとともに、一輝が今いる仲間の存在の大切さに気付き新たな一歩を踏み出す瞬間が描き出されていた。観ていてとても気持ちの良い終わり方であった。これまでの優子にとらわれていた過去を乗り越え、それを糧として更に成長していく一輝の姿はまさに青春そのものであり、観客全員が爽快感を味わえた終わり方だったのではないか。
仲間の大切さや、今この瞬間のありがたさを身にしみて感じさせられる劇だった。
金沢辰巳丘高校の皆さん、お疲れ様でした。
応援とは大切な人からの支えである。人はいつも誰かを応援していて、その応援している人もまた誰かに応援されている。この作品から、人は常に支え合っていて、皆一人じゃないんだというメッセージを感じた。また、役者の動きやダンスの選曲を含め、テーマが一貫していてわかりやすく力強い印象を受けた作品だった。
物語の舞台は小松南高校。陸上部のエース・南辰夫を応援するために、ヒロインの碧をリーダーとし急遽作られたチアリーディングチーム"ヴィーナス"の話である。はじめはメンバー各々が別々の理由で集まっていてまとまりに欠け、チームは解散の危機に陥る。しかし、お互いが支えあうことの大切さに気づきはじめ、その危機を乗り越えて団結し県大会に出場する南の応援に挑んでいく。
はじめにヴィーナスに入った理由がしっかりと描かれていたことによって、登場人物たちの後半へかけての心情の変化がはっきりと伝わってきた。主に平台を使い高さを変えてあった舞台装置も印象的で、それを利用することにより登場人物同士の人間関係や場面ごとの場所の違いがわかりやすく表現されていた。
劇の冒頭で、碧はダンスなんて大嫌いという。その言葉は、ダンスが好きだが母の夢が押し付けられるのが嫌でそれに反抗しているのか、本当にダンスが嫌いなのにやらされていたという意味なのか、観ている側に疑問を感じさせ劇に引きつけていく。そして、劇が進行するに従って、チアのリーダーを特別嫌がらずに始めたり、曲を聞きながら自主練習をしたりするという展開の中で、本当はダンスが好きだったのだなと、その疑問もすっきりと解消されていき、観客に満足感をもたらしていた。
碧の母親が林先生と面談しにくるシーンで降り続ける雨は、碧を取り巻く碧だけでは解決しづらい問題、両親の不仲や母自身の夢の押し付けなどを象徴していたのではないだろうか。更に、最後に先生が面談用の椅子を片付けるとき、雨の降る外を見るかのように振り向くシーンからは、碧が抱える問題が解消されてほしいという先生の思いや、止まない雨はないという希望を感じることができた。
自分と向き合い、好きなことをあきらめずに続けること。また、それを支えてくれる人の大切さやありがたみを感じさせてくれる作品だった。
小松高校の皆さん、お疲れ様でした。
町おこしをしようとしている町とそれを利用しようとする偽番組を主軸に回る登場人物たちの交流から、多くのことを考えさせられる劇であった。地元である能登半島の町を舞台にして、その地域のなまりを使っていたところから地元愛を、詐欺をしようとしてもそれを許した町の人々から人のやさしさを、感じた。登場人物はそれぞれ個性的であり、ひなびた町という雰囲気に奥行きを持たせていた。
町おこしのために特色を作ろうとしていた町民に少女は「無為自然」という言葉を投げつける。だが、最終的には町の特色として女の子が提案した「かかしフェスタ」という行事が受け継がれていくことになる。「無為自然」とは、人の手を加えずに何もしないであるがままに任せることである。少女が「あるがまま」と言っていたにも拘わらず、一方でそれまで町にはなかった「かかしフェスタ」という新たな行事を提案したのはなぜなのか。五年後にまでこの行事が受け継がれていくところに、町おこしを望む町、町民の「自然(あるがまま)」の姿が描かれているのではないか。綺麗ごとだけでなく空言もあるのが世の中であり、両方とも必要であるということを暗示しているのかも知れない。
「ローカル路線バスすっとこどっこいぶらり一人旅」は偽番組のタイトルであり、同時に台本のタイトルともなっている。偽番組のタイトルは様々な番組のタイトルをちぐはぐに組み合わせたものである。舞台となる町は旅番組が来るからこれを機会に町おこしをしようとその場限りの伝統を作り上げた。この二つを考え合わせれば、町自体も本物と嘘をちぐはぐに合わせたものであるという意味合いを持たせようとして、偽番組のタイトルを台本のタイトルとして使ったのではないだろうか。また、偽番組という嘘がきっかけとなって生み出された、「かかしフェスタ」という嘘の伝統が五年後には町おこしにつながっていく。そのことも踏まえた上での命名なのであろう。
現在石川県は北陸新幹線開業によって都市部と今まで以上に強いつながりを持つようになり、都市化の波が押し寄せている。この劇はそのことについても、そして、それでも人のつながりは変わらないのだと考えさせられる、心温まる劇であった。
七尾東雲高等学校の皆さん、お疲れ様でした。
ある日の国語の授業で「銀河鉄道の夜」について学んでいた長沢は、物語の結末が腑に落ちなかった。忘れ物を取りに教室に戻り、森田の置いていった「銀河鉄道の夜」のページを開くと、辺りは光に包まれた。目を開けるとそこは銀河鉄道の中だった。
この劇では、銀河鉄道の通る線路は自分の進む道を、切符は自分の意志を表していて、自分の道は自分で決めることが大切だということが伝わってきた。また、最後のシーンで長沢だけが気づかないまま翌日になっていたり、先生が黒板に書いてある日付を消さずに「×」を付け横に日付を書いたことから、自分がいなくても現実世界は変わっていってしまうというということ、いつまでも楽しい夢の中で生き続けることはできないということをも、私たちに伝えているのではないか。
演出に関しては、教室から銀河鉄道の世界に変わるシーンで黒板の両サイドに配置されているライトが、「銀河鉄道の夜」の世界観を醸し出し、観ている人を劇中に引き込んでいった。銀河鉄道の電車の先端のライトを表すとともに、主人公の心の奥にスポットを当てていたのではなかろうか。ライトと一緒に使われていた心臓の音も、観ている人を物語に共鳴させてゆく役割を担っていた。
銀河鉄道の中に主人公がいる場面で鳴る主人公の携帯電話の着信音は、「銀河鉄道の夜」の世界そのものを止めていたように感じた。そうすることで、現実の世界へと観ている人の意識を改めて向けさせる。これによって、幻想世界と日常との差がはっきりと感じられて、改めて日常の大切さが伝わった。
舞台装置では、窓がすばらしかった。現実世界での教室の窓が、「銀河鉄道の夜」の世界の時には、電車の車窓に見えるように工夫が施されていた。そうすることで、現実世界と「銀河鉄道の夜」の幻想的な世界の両方を、違和感なく観ることができた。
本当の幸せとは何か、友達とは何なのか。そういった身近にあるものの大切さや生きてゆくということを考えさせられる作品であった。
金沢中央高校の皆さん、お疲れさまでした。
この劇では、今から約800年後の未来、「科学が発展しすぎて、人類はココロを持っていない」という世界が描き出される。ココロを捨ててしまった世界で、ココロを持つ子供を育てようとする。しかし、大人はココロを持っていないため、育てるのはココロを持った"ロボット"である、という皮肉な設定であった。ロボットという人工物であるからといって、そのココロは果たして偽物であると一概に言えるのか。ココロがない社会とはどのようなものなのか。私たちが想像しづらい世界が展開してゆく。
「ココロが無い全人類の代表」の人物二口は「自分にはココロがない」と言う。しかし、ココロは「人との関わりでつくられるものである」といったセリフから、二口も、先生や子供たちと関わることでココロが作られていったのではないか。とすれば、便利になりすぎた世界で人類のココロは完全に失われたのではなく、固まって動きにくくなっているだけなのであろう。また、劇中で引用される『星の王子様』は、「ココロはとても大切なものを見ることができる」ということを表していたのだろう。だから、ココロはあってもどこか壊れている子供たちは、一緒に生活していくうちにココロが豊かになり、「大切なもの」が分かるようになったのではないか。
描き出される「旧人類的思想」と「人類的思想」と、それぞれの違いはどこにあるのだろうか。ココロがあるかどうかという違いなのか、またはココロそのものの有無ではなく、ココロの状態の違いを言葉として表そうとしているのだろうか。いずれにせよ、科学が発展し便利になりすぎたことによって考えることを放棄していった結果が、近未来の「人類的思想」であるのだろう。では、今私たちの住む現代社会は、いったいどちらの思想であるのか。ココロが無くなるきっかけとなる、科学の発展が始まっているので後者に移り始めていると捉えるべきなのか。それとも、科学の発展に追いつけている人といない人がいるので、「どちらもが混在している」と捉えるべきなのか。
「ココロは人とのつながりで形成され誰かに使うものである」「ココロは多くの誰かに関わる事で豊かにできる」ということが、この劇から伝わってくる。人とのつながりという面で、SNSなどインターネットを介した間接的な、匿名のコミュニケーションが最近増えている。直接的なコミュニケーションが徐々に減少しつつある現代社会への、一種の警告のようなものを感じる。観る者に、科学の発展とココロの関連について考えさせる劇であった。
小松明峰高校の皆さん、お疲れ様でした。
この劇は、主人公のたまみが劇中に沢山出てくる詩を通して「高校生のもどかしさ、むなしさ、やるせなさ、無力さだったりの価値観」というテーマを伝えたかったのではないか。大きな動きで舞台全体を上手く使い切る演出には迫力があり、舞台装置についても教室の出入り口を示す工夫とこだわりが感じられた。劇の冒頭にたまみが文芸部の部室に向かいながら詠んでいた詩は、惰性で生きていることを象徴しているのであろう。たまみは惰性で生きることを否定している。しかし、惰性で生きることは否定されるべきか、いつも通りの日常で生活できれば、それはそれでいいのではないか、観終わって様々なことを考えさせられた。
タイトルは「クラゲクライシス」である。「クライシス」という言葉にピンチという意味のみならずチャンスという意味も含まれることを踏まえれば、たまみのピンチとチャンスを表しているのではないか。また、たまみは劇中で2回クラゲという詩を詠むのだが、「クラゲ」の詩からたまみの心情が読みとれるのではないか。最初の詩からは、部員として部にとけ込めば自分のやりたいことができる、流れに身を任せていればいいというたまみの思いがわかる。最後の詩は、カナと蛍子の選択が腑に落ちず、思い描いていたものと違ったむなしさ、一人になってしまったこと、それでも何かに流されたくない心の叫びを表しているのであろう。2回のクラゲの詩は、この劇の大事な鍵になっているとも感じた。劇全体を通して、「WASABI」という伝説の文芸誌の詩も繰り返し登場する。「WASABI」、すなわち辛口、刺激、激しいという印象で、たまみという登場人物の性格を示すとともに、劇全体を引き締める効果もあった。
この劇は、ハッピーエンドでもなく、バッドエンドでもない、少し自分自身の中にもやもやが残ってしまうような作品である。夢を持つことは大切なことであるが、自分一人で叶えることは困難である。一人であることの限界、やるせなさというものが描かれ、だからこそ、他の人と触れ合い助け合うことの大切さが感じられた。
くらげの詩で「1%海になれず波を漂う」の部分は、なりたいけれどもなれない、自虐の部分だと審査員の方が教えて下さった。この劇は観ている人達に、たまみが最後一人になってしまったことを、ピンチととるか、チャンスととるか、考えさせたいのではないか。
金沢商業高校の皆さん、お疲れ様でした。
この劇は、「まーさん」を中心として、「ライス」、「やっちゃん」、「ノラネコ」の四人が形作っているSNSグループ「セン」にある日招待された「F谷」が、「ノラネコ」の性格と「F谷」の性格とを同一視したような「まーさん」の発言によって傷つき、「セン」そのものを壊してしまうという話である。現代急激に普及しつつあるSNSというコミュニケーションツールには、自分から発信された何気ない言葉が、受け手の受け止め方によっては鋭いトゲを持った、ひどい悪口になってしまう危険性がある。今回の「セン」という劇は、その怖さを上手く観客に訴えかけていた。「まーさん」の心ない発言に対して「F谷」の不満が爆発してしまった場面では、悪意のない冗談でも、時によって相手を深く傷つけてしまうSNSの、いや、コミュニケーションそのものの持つ問題点が効果的に表現されていた。
劇の冒頭部分では、SNS上の会話が現実世界での会話のように描かれていく。だが、「SEN」(セン)と書かれたポストが使われ始めるに従って、観客は描かれているのがSNSなのだということに気づき始める。この劇構成により、SNS上での会話が視覚的に捉えられ、登場人物の言動の変化から本来SNS上では潜在化しやすい感情の様々な移り変わりがわかりやすく、故に空恐ろしく、表現されていた。また、SNS上の会話と現実世界での会話とに本来はっきりとした境界などなく、会話には必ず相手がいて、相手を尊重する気持ちが大切であることを強く感じさせられた。
劇の後半、それまでずっと好きだといっていたはずの先輩のことを、「まーさん」が突然嫌いだと言う。この変化は何を意味しているのか。これは現実とSNSの間で生まれてしまった二面性や、目新しいおもしろい話や強い刺激を求めたがってしまうSNSの特徴を示すための変化なのではないか。よくSNSを利用する高校生世代の一員として、確かに現実世界とSNS上での雰囲気にかなりのギャップがあるという経験は多く、強く共感できた。
ややもすれば似通って見える「やっちゃん」と「F谷」の劇中での役割はどこにあるのか。劇前半では特に目立った発言や行動がなかった二人だが、後半での「まーさん」との会話内容からすれば、「やっちゃん」は認められた存在で有り、「F谷」は認められない存在である。二人は実は独立した人格ではなく、「まーさん」の負の感情の象徴なのではないか。この二人に関しては様々なとらえ方ができる。観客個々に考えさせる仕掛けなのであろうか。
この劇は、序盤のテンポのよい会話と後半のシリアスな場面とが対比的に捉えられ、それ故にシリアスな場面での言葉が深い意味を持って観ている側の胸に響いてきた。現代のSNSの利用の仕方に対して警鐘を鳴らし、SNSの使い方について考えさせる。のみならず、日常生活でのコミュニケーションのあり方についても再考させられる劇であった。
鶴来高校の皆さん、お疲れ様でした。
「人と人とのつながりの大切さ」を強く感じさせる、そんな劇であった。また、小さいことをコツコツと積み重ねていくと、それがきっかけとなり大きなことにつながっていくというメッセージも、伝わってきた。
この劇は、落語が劇の土台になっており、落語家が噺をする場面から劇は始まっていく。落語というものは落語家一人の演芸である。孤立している感じや寂しいなどの負のイメージが感じられるかもしれないが、実際はお客さんに問いかけをしたり、落語家が言ったことに対してお客さんが笑ったりする、演じ手と観客が一体となって作り上げるものであろう。確かに噺をするのは落語家一人だけだが、決して落語家一人だけで成立するものではない。それはきっと社会生活でも同じことであり、どれだけ自分が一人だと思い孤立していると感じても、結局はどこかしらで何かしらの形で人と人は関わっているのだ。
劇の構成については、様々な意見が出た。落語の噺二つが演じられていたが、後半のシリアスな展開とのつながりはどうであったのだろうか。講評委員会の意見としては、落語の噺二つは、劇中劇としては面白いが後半とのつながりについてはややわかりづらさがあるという意見であった。場面転換では、落語の中で起きている話と現実との区別がわかりやすく表現されていた。また、音響のタイミングがキャストの動きと合っていて、劇全体の質を高めていた。
最後に、タイトルの「私立まほろば高等学校落語研究同好会の輝ける歴史」についてであるが、なぜ「歴史」という単語が入っているのか。劇中に「落語は誰かに観てもらって意味がある」という台詞がある。主人公の葛谷は今まで誰にも落語を観せたことがなかったが、本当は誰かに自分の落語を観てもらいたいと思っていた。タイトルの「歴史」とは、葛谷が自分の落語を観てもらうことによって開花してゆくまでの歴史を意味しているのではなかろうか。
私たちが人と人とのつながりを当たり前と思ってしまっている現在。それは当たり前ではないと改めてありがたさに気づかせてくれる、そんな劇であった。
北陸学院高等学校の皆さん、お疲れ様でした。
変えたいもの、変わらないもの、変えたくなくても変わってしまうもの・・・「わーるど・わーるど」は、「学校を変える(劇中ではスクールジャックと呼ばれている)」という理想を持った五人の生徒の中の一人、主催者の杉浦の学校への抗議から始まる。
この劇では、様々な物事の意味を、しばしば考えさせられる。二限目の「関係性」、三限目の「人間」、四限目の「性」、そして物語全体で語られる「自由」とは?五人の女子高生たちは、そんな抽象的な事の意味をまるで学校の授業のような雰囲気で考えている。しかし、どの問題にも、明確な答えが劇中で出ることはない。それは女子高生達が少し話し合う程度で分かる問題ではないことを伝えたいのか、あるいは劇を観た人たち自身が考えてほしいというメッセージなのかもしれない。
舞台である部室(半ば物置と化している)では、金魚のなっちんが金魚鉢の中で飼われている。このなっちんは、まさに五人の状態そのものだと感じとることができる。金魚は自分たちであり、金魚鉢は学校(ルール)である。「学校を変える!」といいながらも、授業時間や休み時間、昼食時間まで律儀に、それも無意識に守っている彼女たちは、つまり囚われていると知らずに泳いでいる金魚そのものである。金魚鉢の中の金魚と、学校の中の生徒、二つを照らし合わせながら観ていると、また少し興味深い見方をすることができる。
そして、この物語の結末だが、結局何も変わらないまま終わってしまう。これは、きっと理想と現実のギャップを描きたかったのであろう。授業をなくす、快適な環境にする、自分の好きな教科だけの授業・・・そのような学校はもはや学校とは呼ばないのだが、彼女たちは「いらない」とは言いながら、「必要ではない」とは言っていないのだ。それは心の奥底では学校の存在意義が分かっているということである。だから、最後は皆あっさりとスクールジャックを諦めてしまう。仮に学校から逃げたとしても、その先はあまりにも不確定で、予想がつかないから。金魚が金魚鉢から抜け出すには、「飛び出す」という手もある。では、飛び出した後はどうするのだろう?自由になるために飛び出し、水のない世界に放り出された金魚の末路を考えれば、その行動が本末転倒であることは一目瞭然である。しかし、人はそれを体験しなくても知ることができる。それが人間と金魚の大きな違いである。
スクールジャックは起こることなく、何も変わらない日常がまた明日から始まる。しかし、自分の無知、非力さを知ることに、大きな意味がある。そう思わせる劇だった。
金沢二水高校の皆さん、お疲れ様でした。
幸せとは何か。不幸せとは何か。単純でありながら誰もが答えを求めている、そんな問いをぼんやりと浮かび上がらせる作品であった。題材は詩人中原中也。彼の半生を描くことで見える当時の人々の生き様や、一人一人の登場人物、彼らの言葉すべてに意味がこめられているように感じられて、いい意味で気が抜けなかった。
物語の柱として、彼の周りの二人の女性が実に印象的に描かれていた。生き生きとした表情、仕草の泰子は、手の届かないところにある大きな幸せを思わせる。漠然とした言い方だが、夢に近いものだろうか。一方、あまり笑わず、硬い印象を受けた孝子は、見つけるのは困難だけれども、実はすぐそばにある小さな幸せを思わせ、対照的な彼女たちを描くことで、観る者は、中也の求めている幸せはなんなのか自然と考えてしまう。これがこの作品の世界への導入ならば、その思惑は成功していると言って良いだろう。
孝子が中也に言った「あなたは周りを幸せにした」という台詞、中也の言った「人を幸せに出来るなんて大きな誤解だ」という台詞、これもまた対照的である。中也は自分が誰かを幸せにできるなどとは毛頭思っていないが、孝子の幸せは彼の最期に自分の名前が呼ばれること。彼女は中也の一言で幸せになれるのだと思うと、「幸せ」というものに対する認識は人によって違うのだと改めて実感する。言い換えれば、その人を取り巻く環境は同じでも、考え方が変われば幸せになれるということだろうか。ずっと東京での成功を目指していた中也が故郷へ帰ろう、と孝子へ言うのも周囲の影響によって考え方が変わったからだろう。幸せになったとまでは言えないが、一歩近づいたのかもしれない。
投げかけられた問いは曖昧でふわふわとしているように感じるが、その舞台は周到に作りこまれたものであった。丁寧な舞台セットやスムーズな場面転換のおかげか、一度引き入れた観客の意識を離すことは無かったように感じる。もちろん史実に基づいているため、ある程度拘束される部分があるのだろうが、そんなことは全く感じさせず、ゆったりとした世界観を作り出していた。派手な演出はないのに、なぜか目をそらせない。どっぷりと作品の世界に浸れる、贅沢な時間を過ごした。
野々市明倫高校の皆さん、お疲れ様でした。
「逃げ道が全くない時、人はどう行動するか。」そんなことを強く考えさせられるテーマであった。劇団「どん底」のリーダー的存在である啓は、高校生時代に所属していた劇団で、突然キャストを一身上の都合で降りてしまったという過去を持っている。その過去の記憶が、現在の啓にも深い影を落としているのである。彼を知る人からは、「人の努力を平気で踏みにじって、そのくせ自分の嫌なことからは逃げる」人間だと言われ、摩擦を生じさせている。また、彼自身も怯え、良心の呵責にさいなまれている。
「逃ゲ道ナシ」は、啓だけではなく、すべての登場人物たちもまた逃げ道がないのではないかと考えさせられた。自分の過去から逃げている啓、啓を責めるばかりで歩みよろうとしないちひろ、啓とちひろのいきさつを知りながら何もしないめぐみ、啓のしがらみを知っているが母親のように見守るだけの美羽。そんな何かから逃げている先輩たちの過去をだんだん知っていく明。
逃げ道がない膠着状態の時の選択は、どうすればよいか。恐らく二つしかないのではないだろうか。一つは、本当に辛くなったら逃げても良いという選択である。自分の身も心も引き裂いてまで立ち向かう必要はないのではないか。自分がバラバラになる前に逃げて、自分を取り戻すことで、生き続けていく力になるのではないかとも考えられる。もう一つは、やはり嫌なことから逃げずに立ち向かうという選択である。逃げれば逃げるほど、追ってくる後悔は大きくなる。結局は自分自身が立ち向かうことでしか解決できない問題であり、少しでも早く対決をしていくべきだからである。もちろん、立ち向かうことで自分も相手も傷つくことは覚悟しなければいけない。しかし、たとえ傷ついても、解決をすることで自分はまた一回り大きく、強く成長するのではないか。逃げ道のない状態は、前に進んでいく恐怖が一時的に見せている幻覚のようなものなのかも知れない。本当は逃げ道があるのに、ないように見えてしまう、または見てしまう人間の心理なのではないか。どこかで逃げようとする自分を断ち切るきっかけをつかまなければ、いつか自分自身が破滅するのではないだろうか。
逃げ道がなくて、もがき苦しむ状態の中、この苦しみを少しでも癒す存在があれば、傷ついた心を休めたり、立ち向かったりできるのではないか。自分をサポートしてくれる仲間の大切さも合わせて考えさせられた劇であった。
金沢伏見高校の皆さん、お疲れ様でした。
生徒達は学校生活に不満やら、虚しさを感じていた。「あいつが気にくわねえ」とか、「学校のやり方が頭にくる」とか。そこで、先生達がいかに生徒達に理不尽な教育を施しているか、そのルーツを探ろうとして、「あの日、あの頃、あの時マシーン」を使い、先生達を十七歳に戻す。
私たち自身、「この先生の授業、進むの速すぎ」「そこ、昨日もした」など一度は誰でも思ったことがあるだろう。私たちの経験や身近なことを劇にしていたため、とても共感しやすかった。
学べるところもたくさんあった。「この先生いやだ、あの先生もいやだ」と全てを拒否することは虚しい。生徒も先生も、お互いに相手によりよく接することができるはずだ。拒否からは何も生まれないことが解った。
十七歳に戻った先生は、生徒達が普段の先生たちから想像していた姿とは全然違っていた。先生にも先生の人生と苦労があり、それが今の先生を形作っていた。そこには生徒への思いがあった。現実の先生方も恐らく私たち生徒によかれと思い、優しく、時に厳しく、接して下さるのではないか。それなのに、「先生が嫌い」「先生の授業は受けたくない」と拒否してきた自分が情けなく思えてきた。先生一人一人に敬意を持って向き合うことの大切さを学んだ。
照明については、十七歳に戻る瞬間の色彩の多彩さが際だっていた。特に、背景でおにぎりを回転させる発想には驚いた。音響面では、場面転換時に音楽を流し観客を飽きさせない工夫がなされていた。舞台装置でも、平台の使い方が上手く、また、服やポスターまでが手作りであるところに、演じる側のこだわりを感じ取ることができた。
劇を観終わって、題名の「OK」が学校や先生に対する理解を示していることがはっきり伝わってきた。「自分のことは自分で決める」「人に甘えていては本当の自分は見つからない」など、改めて自分の高校生活を考えさせられる劇であった。
金沢錦丘高校の皆さん、お疲れ様でした。
ずっと父親の死を乗り越えられずにいた主人公の五十嵐は、それを傍らで見ていた幼なじみの乃絵留の「お父さんのいない現実世界を、そろそろちゃんと生きていかなければいけない」という言葉や、桜の正直な気持を知って、少しずつ父の死に向き合えるようになっていく。この劇で、支えてくれる仲間の大切さや、仲間がいるから成長してゆけるということを考えさせられた。
登場人物が全員で17人ととても多かったが、一人一人の個性がよく表現されていて、人間関係も分かりやすかった。多くの登場人物の中でも、五十嵐が変わっていくきっかけとなったのは、乃絵留であろう。幼稚園のころの約束だからと五十嵐といつも一緒に行動しているが、本当は五十嵐のことをとても心配している。彼が父親のもとへ無理矢理にでも行こうとするのではないかと不安に感じていたから、五十嵐が父の死を乗り越え、生きていることを幸せだと思えるようになるまで、五十嵐に寄りそい、少しでも楽しんでもらおうと思っていたのだと、彼女は告白する。乃絵留のこの告白をきっかけに五十嵐は変わっていったのではないだろうか。
演出では、高校生らしさを出すために、生徒たちのざわめきが効果的に使われていた。また、五十嵐がいつもポケットに入れている手を出して話すことで、彼の本音がうまく表されており、観客にもよく伝わっていた。他にも、五十嵐が父に向かって話すときに制服のボタンを留めるところが、父と話すための心の準備や、逃げていたことに向き合えるようになった五十嵐の成長を表現しているのだと感じさせた。
劇中には合唱のシーンやダンスのシーンがあり、それらがとても完成度の高いものに仕上がっていて、観ていて飽きることのないように様々な工夫が施されていた。更に、最後の合唱は劇全体やタイトルともリンクして、五十嵐の心情の変化を観客に感じさせていた。
桜が五十嵐に投げかけた「また明日ね」という言葉。これには、つらいことがあっても明日はくるよ、というメッセージが込められていたのではないだろうか。
支えてくれる仲間がいることで、人生のつらさや悲しみを乗り越えていけるということが伝わってきた劇であった。
星稜高校の皆さん、お疲れ様でした。
合理性を目指した世界で、全てプログラムされて作られたはずの少年の「欠陥」から巻き起こる、私たちに今生きることを考えさせる劇であった。主人公トリが自分のしたいことをするために先の見えない暗闇に進んでいこうとする姿から、自分の気持ちに正直に向き合い、自分で自分の道を切り拓いていこうとする勇気の大切さが伝わってきた。
主人公をはじめ全てプログラムされて作られた子どもたちであるプログラミング・チャイルドは大人にとって都合の良い、手間のかからない存在、のはずであった。その中で欠陥を持ったトリの姿を通じて、他人が望む自分と自分らしくある自分との擦れが生み出す葛藤が描かれていた。欠陥があるからこそ様々な事に苦悩したり、知ろうとしたり、他人に馬鹿にされても自分のやりたいことをしようとしたトリからは人間らしさを感じた。人間は完全なものではなく、むしろ完全ではないところが個性になるのではないか。とすれば、完全を目指す合理的な社会は個性を潰してしまう。合理性を目指すとはどのようなことか、社会に警鐘を鳴らしているようにも感じた。
劇が始まってすぐ視界に広がったのは、幕のように垂れ下がっていたものと後ろに山をいくつか描くような形で張られていた白線、白と黒の椅子と机と引き出しのようなものであった。リビングには白、トリの部屋には黒が使われていた。白線は何を表しているのだろうか。空の見える世界とトリ達がいる世界の境目、この先に入ってはいけないという線引きではなかろうか。また、白線がシメントリ―であったことからもこの世界が合理的であることも伝わってきた。
キーワードともなる「旗」は、トリが指定された旗とは違うものを作ろうとしていたところから、自分自身やそれぞれの個性を表すのであろう。そして、父がトリを風のあるところに逃がそうとしたことから、「はためく場所」とは自分自身を、個性を主張できる自分らしくあれる場所を意味するのであろう。
トリが白線の向こうの暗闇に向かい、トリの存在が家族から消された後、風の吹かないはずの世界に風鈴がなったのは、トリがこの世界に風が通る穴を作ったからではないか。
ゲームのようにすべて決まっているからこそ安全な世界か、暗闇のように先がどうなっているか見えないからこそ未来をつくることができる世界か、見ている者それぞれに選択を迫る、考えさせられる劇でした。
金沢桜丘高校の皆さん、お疲れ様でした。