第69回石川県高等学校演劇合同発表会

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生徒講評


1 藤花学園尾山台高校『S.O.S』

「どうにかなる。」これは劇中で何度も繰り返されていた言葉だ。

観客たちは、上演後に何かしらの希望や勇気を見出したのではないだろうか。

どうにでもなる、どうにでもなると反復されていたのに、結果として大友は親友であり、一番の好敵手である高坂に、放送部の大会で敗れてしまった。実績不十分である部活動が廃部にされてしまうなかで、恐らく大友率いる放送部の未来を想像するのは難しくないだろう。「どうにもならず」に終わってしまったのではないだろうか。

この『S.O.S』という劇のほとんどは、大友と高坂、そしてその後輩2人の過ごした学生時代の回想シーンで構成されている。彼らの残りの学校生活、また卒業してから4人が居酒屋で再会するまでどのように生きてきたかは語られていない。

だが、そんな中でもきっと、大友は「どうにかなる!」と笑い、小泉や本田、そして高坂は彼の笑顔に救われ、前を向いて生きることができたのではないだろうか。

ところで、このタイトルでもある『S.O.S』とは、救助を求めるサインであることは誰もが知っていることだろう。この劇におけるS.O.Sとは劇中の人物から劇中の人物に出された救助依頼ではなく、尾山台高校の部員たちが、私たち観客に対して出されたものではないだろうか。

高校生という多感な時期である彼らが、思春期の葛藤のなかから、私たちに救いの手を求めているように感じた。どうにかなると前向きに生きねばと思っていても、どうにもならなくなってしまい、つい後ろ向きになってしまう高校生である彼らの心の叫びなのではないか。

暗転が多く、場面転換が多かったため、少し間延びしたようにも感じたが、それも気にならなくなるほどに、役者の演技が活き活きとし、高校生の持つ若いパワーをひしひしと感じられた劇だった。

尾山台高校という名義でする最後の劇に立ち会うことができ、非常に感謝をしている。学校名が変わり、金沢龍谷高校となっても、今までのようなエネルギーを感じる劇が観られることを楽しみにしたい。

藤花学園尾山台高校のみなさんお疲れ様でした。


2 石川県立小松高校『糸・半(きずな)』

この劇から感じたテーマは、偽善や偽りの絆である。

「え?あぁ…私が飛び降りた理由ですか。それは…。」という美沙のセリフから物語が始まる。このただならぬ始まり方のせいか、その後の新入生歓迎会を終えて打ち上げをしている生徒会のシーンで生まれている絆をどこか疑ってしまうところがあったように思う。

そして物語は、登場人物が一人一人、美沙についての事情聴取を受けるシーンが度々入り、物語が進んでいく。美沙は最初、生徒会のみんなと上手くやっていて、仕事ができるとほめられていた。前年度の先輩のミスを見つけ直したりし、周りと馴染んでいるように見えたが、美沙のお弁当箱が何者か壊されていたところから徐々に生徒会での美沙に対するいじめが始まる。主にいじめをしていたのは響子と咲良だ。そしてその二人から「美沙が裏であなたの悪口を言っている」と言われ、美沙から離れていく友香と、女子たちの関係に全く関与しようとしない結城。美沙の頼りになるのは、生徒会長のあみだけ。そう思っていたのだが、最後のシーンで、あみがいじめの主犯だったことが発覚する。美沙が死んでしまった後で、自分のことを棚に上げ、人を責める生徒会の人々。しかし、あみが「あなたは悪くないの?」と問いかけ、最後に「益田美沙ちゃんを殺したの、なぁんだ。」と言って物語が終わる。あみの言葉によって、誰か一人のせいではないのだと気づかされた。

印象的だったのは、生徒会の壁に貼られていた「絆」の文字だ。「糸」に「半」と書いて「キズナ」という漢字としていたが、正しくは「絆」である。点ふたつの向きが違うのだ。これは、最初から絆に見えていた漢字はどこかおかしく、偽りの絆だったことを表しているのではないかと考えた。

また、美沙を裏切った由香や、生徒会に入れることで美沙に居場所を作ろうとした宮ちゃん先生、その先生を気づかうようなことを言いつつ、現実から目を背ける藤堂先生など、様々な立場、様々な年齢の人々から「偽善」が垣間見ることができる。事情聴取で誰もが真実を語らず、自分にとって都合がいいように、自分が悪い人に見えないように取り繕い、脚色して話していた。おそらく自分に都合よく脚色された「真実」がさらに他者により都合よく脚色さて、世の中に広まっていくことが想像できた。本当は「真実」などどこにもないように見えた時、結城の言葉には「真実」があったことに気付く。彼は事情聴取で「…すみませn。あまり益田さんとは、話す機会がなかったので…僕は、なにも…。」と語る。これは嘘ではない。「なにも知らない。」ならば嘘になるが、「なにも…」の後に何がくるかは分からないが、「なにも話すことができない。」ではなかったろうかと推測できる。実際にこのセリフの後から彼は実際に黙ってしまう。しかし彼は生徒会でも会話はパソコンに記録していた。おそらく記録の内容を口にしてしまうことは、彼にとって「真実」ではなくなると感じ、あえて話すことをしなかったのだと感じた。彼のそのような行動から、偽善や偽りの「絆」をテーマに、真実とは何かを追究することにかける強い想いが伝わってきた。

また、舞台装置では、教室のセットを舞台の真ん中で置いている点が、この出来事が学校という小さな閉ざされた世界で起きているこということを強調しているように感じた。

石川県立小松高校のみなさんお疲れ様でした。


3 北陸学院高校『欠片すらない』

物語は、とある学校の生徒会の一室から始まる。体育祭の準備に忙しくしながらも、全力で楽しんでいる生徒会メンバーの姿が見えてくる。走り回ったり、メンバーの発言にすかさずツッコミを入れたり、突然ダンスが始まったり、活き活きと繰り広げられながらも細かい演技の一つ一つから、メンバー達の仲の良さがにじみ出ていた。

「体育祭まであと2日!」と書かれたホワイトボード越しに、事件が起こる。野田の下駄箱に「体育祭を中止しなければ爆破する」と記された紙が入っていたのだ。生徒会メンバーが気になることはもちろん、生徒の安全、そして、自分たちが準備をしてきたものが潰されてしまうのではないかということである。混乱と不安の中、生徒会の中で言い争いが始まる。そして実際にゴミ箱から何かが爆破してしまう。騒ぎを聞きつけた佐竹先生は、生徒の安全のため、職員室に相談に行く。様々な葛藤があった中、今まで何も意見を言っていなかった生徒会長が、「体育祭をやろう。」と団結を呼び掛ける。しかし、生徒会の意見は先生方に届くことはなく、準備していたものはすべて片づけることになった。

一面に敷かれたパンチカーペットの上を縦横無尽に走り回り、舞台を広く使えていた。舞台セットも一つ一つが細かく配置されておりリアリティを感じた。舞台上を大きく動きまわり、音響や照明を合わせることが難しいのではないかと感じていたが、タイミングも良く、スタッフとの息の合う舞台を見ることができた。役者の動きが計算されていて、どのようにしたら面白い舞台になるかを追究しているように感じた。背景にはパネルも何もなく、ホリゾントもなく、大黒幕の黒一色であったのが、印象的だった。何色にも染まらない黒は、自分たちの意見を尊重してほしいという生徒会の意思が抑圧されている閉塞感があるのではないかと感じた。

前半のエネルギーあふれる場面から、一転、行き場のないやるせなさに満ちた場面転換が見事であった。さらに中止体育祭の準備の全てが片づけられ、残されているのはホワイトボードだけとなった時、突然野田が口を開くことで明らかにされる。常に笑顔で生徒会に顔を出してくれていた佐竹先生が、実は職員室では居場所がなかったことが明らかになる。先生の見えなかった部分が見えることでさらに動揺がはしる。自分たちが頼りにできるものが何もないことを悟った野田と菊池は、もう何も行動することは無かった。ただ、ホワイトボードに書かれた文字を消し、「先に帰ります」とだけ書いて帰ることだけだった。残された生徒会室の無機質さが、何とも言えなかった。

この作品のテーマは「ルールに表れない現実の非情さ」だと考えられる。どんなに抗おうとしても変えることのできない現実がある。しかし、それには声に出し、意見を言うことが必要である。自分の意見を言うことなく、流されていくやるせない思いが感じられた。本当に爆破されるものは、ゴミ箱でも体育祭でもなく、生徒会の意思や意見だったのではないかと感じられた。

北陸学院高校のみなさんお疲れ様でした。


4 石川県立金沢錦丘高校『万物創世記』

おもしろい作品に出会った。この劇を見終わった瞬間は何も分からなかった。しかし、時間が経つにつれて、「あ、こういうことだったのでは。」というように色々な解釈が生まれてきた。すぐに分かることだけが演劇ではない、観劇後に続く余韻もまた演劇なのだ。今回の劇はそれをひしひしと感じさせられた。

本作は、老師、二休、ソクテラスの三人の思想家との修行を通して、主人公マミコの成長を描いている。修行の中でマミコが人に感謝を伝えられるようになったり、自身を見つめ直し、自分の思想を探し求めていくようになったりと、その成長がありありと伝わってくる。その修行内容もおもしろい。夢とゲームと想像だ。現実から離れるためのものであるこの三つを使ってあえて現実を見せる、見えてしまう。そこに、マミコの現実に対する思いの深さ、そして現実から逃れられない切なさが垣間見える。役者たちの脚本に対する理解の深さあってこそだ。それは、役者が一人二役以上をする上でも、役と役との違いをはっきり演じ分けられていたことからも見てとれる。また、劇中のバーチャルリアリティゲームの音声も、見事に機械的な音声を再現していてリアリティがあった。

脚本を読んだとき、老師、二休、ソクテラスの三人の思想家がどのようにみせるのかを疑問に感じていたが、舞台中央でスポットに照らされて三人が並ぶ姿にはひきつけられるものがあった。役者もそれぞれの役柄を充分理解して臨んでいる様子であった。特にソクテラスのダンスシーンは赤のホリゾントをいかしてシルエットで表現されていたのがソクテラスの美しさを存分にあらわされていた。

舞台装置も極めて簡素なものであったが、そこがまた役者の感性を最大限にいかせる結果につながったのではないかと考えられる。

冒頭にも触れたが、この劇は見終わった瞬間には、どんなテーマなのか、何を意図しているのかが分かりにくい。しかし、その分かりにくさは時間が経つにつれて、観客にひとつの解釈だけではなく、たくさんのイメージと解釈を与えてくれる豊かな劇であるのだと思う。とても新しい感覚を味わうことができた。心から感謝したい。

金沢錦丘高校のみなさんお疲れ様でした。


5 石川県立野々市明倫高校『Utopian game~死刑台で笑うための99の方法~』

この劇のテーマは、「戦争」であったり、「未来の地球」だと考えた。最初の場面で七人それぞれがしゃべり出して、爆発音、戦争を感じさせる音により、荒れた感じの印象があった。また七人が集まり、それぞれ言葉を発しているところで、宅配業者役が舞台装置の一番上に配置したものも何かの伏線ではないかと考えた。途中のプロジェクターでの表現があり、あまり見ないアイディアであった。空の話の時ではそれぞれの好きな空について話していたが、子供だけ「ビルの間から見る空」と言っていた。今の社会の状態や、閉塞された空が一番だと思い込んでいる子供の気持ちなどが想像させたれた。

演技では、全体的に動きが大きく、情緒がはっきりしていたので飽きることなく、コミカルな動きもあり明るい雰囲気が楽しめた。二つのコミュニティの物語の掛け合いや重なるセリフを言う場面などの息も合っていた。

音響では、演者の切羽詰まる場面のノイズがフェードインから徐々に大きくなるタイミングが絶妙であり、自然と作品世界に引き込まれた。舞台装置については、ステージ全体を使った抽象的な装置であった。パネルでガラクタの壁を表現しているところが印象的であった。さらにガラクタ感を出すために、新聞をちぎって貼り付けていた工夫が良かった。新聞は、外の情報を伝える媒体であり、情報が壁になっていることが、何か意味があるようで色々と考えさせられた。さらに照明では、二つの物語でスポットを当てて、どちらの物語に集中すればよいかを分かりやすくなっていた。また空の雲を表現していたことが物語を違和感なく見ることができた。宅配業者が舞台装置の周りを歩いている際に、動きに合わせた細やかな照明が良かった。衣装では、それぞれをイメージさせるものになっていた。

最後の「あなたはゲームを続けますか?」という問いかけについては、今、私たち自身も彼らと同じく

「ゲーム」をしていると考えることができる。そしてその「ゲーム」が、自分の好きな「理想」ばかり言っているが、自分からは何もしない(例えば、選挙に行かなかったり)といった行動が、結果的に戦争になったり、ガラクタだらけの地球になってしまうという警鐘ではないかと感じた。私たちがこれからすべきことを深く考えさせられる劇であった。

野々市明倫高校のみなさんお疲れ様でした。


6 星稜高校『オデュッセイア~はるかなる旅路~』

この劇のテーマは「親子の絆」そして「出会いと別れ」だと感じた。冒頭のお葬式のシーンは私たち高校生でも身近に感じることのできる場面から始まる。その後、一気に物語の世界へと入り込む場面転換は、観客も一緒に引き込まれ圧倒された。コミカルなシーンでは思いっきり笑うことができ、シリアスなシーンでは、登場人物たちとともに息を飲み、涙を流しながら観ることができ、とても魅力的な劇だった。また、神話と融合し、上手くリンクさせているところも面白かった。

始めは緞帳を下ろしたまま、花道で演技をしていた時、緞帳の後ろには一体何が隠されているのだろうかとワクワクと期待しながら観ることができた。

舞台装置では、特にタイヤの付いたパネルを何通りもの使い方をしているのが印象的だった。船になり、荒々しい海原を行く様子を表現し、電車までも作り上げた時は「そんな見せ方もあるのか。」と驚きを隠せなかった。また棒が刀になったり、オールになったりと多機能に使われていた。その他、死者の国のシーンでは、後ろの白い布の後ろで演技することで、ぼんやりと人の影が映り工夫が感じられた。照明や音響のタイミングも役者の動きと合っていた。フェードインやフェードアウトなども違和感なく劇に集中できた。  衣装もオデュッセウスや女神は白く目立つ衣装で、その他の人たちは黒い衣装だったのが分かりやすかった。お店の女の子がエプロンを外した時に女神に変わるところも分かりやすく素敵だった。

酒を飲んでいる時の演技や死者の国に行く途中に流されてしまう仲間たちの表情など、一つ一つにまで心配りが行き届いていた。現実世界では、息子が部屋で本を読んでいる時、体勢を変えたりしているところが非常にリアルだった。また、オデッセイアの世界では大人数で壮大な冒険を表現していた。一人何役もこなしていたが、混乱することなく自然に役の変換が行われていた。最後、息子が父親と再会するシーンでは多角的な解釈ができ、とても興味深いラストシーンであった。

ずっと部屋にこもって本を読んでいた高校生男子が母親に何も言わずに、一人で家を出て被災地に行くところで、彼の成長を感じた。被災地のお店の女の子たちのようにみんなそれぞれ辛い過去があったからこそ、人の痛みが分かり優しくすることができるというシーンでは、人の暖かさに改めて気づかされた。

星稜高校のみなさんお疲れ様でした。


7 石川県立金沢商業高校『出停記念日』

この作品のテーマは「自律」「友情」「命の重さ」などであると感じた。周子たちのクラスでは文化祭の打ち上げで飲み会をしていたことがばれて、クラスの四十人が出席停止となった。出席停止を免れた周子、千愛はミヤギ先生から自習するよう言いつけられ、それぞれが思う自習を始めた。一方、隣のクラスの先生からは連対責任や一連托生といった言葉が出てきて逆のことを言っているという意見もあった。舞台が沖縄ということで十一月でも薄着でいられるのかと感じた。海が近く、さやかの「海が隔てているのではなく、島と島を海がつないでいるんだ」という言葉から、海をいう友情が島という仲間をつないでいると捉えることもできる。また、最初は出席停止でなかった千愛や奈苗が、違反行為の次々と証拠を見つけられて机を持って別室に行ってしまった後、残った周子はさやかに髪を染めたことを理由にしてみんなと一緒に出席停止になろうとするところに、「出停」の意味が違ってきていることを感じた。彼女たちにとって「出席停止」は悪い意味ではなく、皆で同じことをするという一種の友情の形であり、出停を逆に楽しいことと捉えることで「記念日」になったのではないかと感じた。工夫されていた点は、セリフの端々に「友情って何だろう?」「人は何のために歴史を残すのだろう?」など観客に問いかるような場面があり、自然と周子たちと同じ立場に入り込んでいるような印象を受けた。

また舞台装置については、広い舞台にポツリポツリと机が並べられており、物語がすすむにつれて、ゆったりした舞台なのではなく、ほとんどの机が移動された教室であることに気づかされる。本来あるものがない風景の喪失感がよく表現されていた。演技についても、舞台の正面を窓に見立てて繰り広げられるキャストの演技は、実際にそこに窓があるかのように見えた。劇中に何度か使われたホリゾントには、お茶を飲んで一息つくときは緑、夕方には赤と観客に分かりやすく伝えようとする意図が感じられた。ラストシーンで周子が、今はいないあずみの机を運ぶ時に「一緒に出停になりたかった?」と問いかける言葉が印象に残った。これは人それぞれの感じ方あり、あずみならどう思うかという意味であると同時に、私たち観客への問いかけでもあると感じた。等身大の高校生が考えるような言葉や行動が私たちにもストレートに伝わってきた。

金沢商業高校のみなさんお疲れ様でした。


8 石川県立金沢伏見高校『部屋―詩劇のためのスケッチ』

この劇のテーマは「演劇」なのではないかと感じた。キャストが劇中に、本物のリンゴや窓であると言葉にして説明していくことで場面も展開していく。そして話の最後には、演出家がトビラから入ってきて地明かりをつけることで、その出口のない部屋が舞台という確かな物へと変わった。何もないところから物語の設定を作りあげていくことは、真っ白なところに線を増やしスケッチすることは似ているのではないかと感じさせた。サブタイトルの「スケッチ」との共通点を考えさせられる内容であった。

物語が経過していく中で、モノが壊れるシーンでは「死ぬ」と言って赤のホリゾントが入ることでモノを人のように見立て、「物の大切さ」を伝えようとしている。キスシーンは「男女の愛」、「まだ」や「三本足」といった未完成であることを連想させる単語を強調して話すことで、見る人に不気味で不思議な感じを与える効果を感じた。

この独特な世界観を作り出している要素として、話し方のちぐはぐさをキャストが上手く使い分けていることがある。女はどこか現実味のない話し方であるのに対し、男は人間味のある普通の話し方であるというコントラストが印象的であった。二人の話し方だけではなく、衣装にもコントラストの工夫があった。女は赤と白のまるで堅い線の絵画のような衣装であったのに対し、男は青くだらしなく着崩したような衣装であった。二人の性格も正反対でキャラクターが細かい部分まで作りこまれていた。場面場面で流れてくる音楽も少し不気味さのある世界観を壊さないように感じられた。壁をあえて作らず、窓を描くときもパントマイムで表現してたことからは、女の開放的な性格と男の外に向けた興味関心や未来に希望を感じる心が表されていた。ドア、リンゴの木、イスを後方に離しておくことで、二人の孤独な気持ちを表出することをためらう気持ちを感じられた。

この劇のキーワードは「未完成」ではないかと感じた。窓のない「未完成」な部屋、三本足の「未完成」なイス、赤くなる前のまだ青い「未完成」なリンゴ、そして本番一日前の「未完成」な舞台。これは演劇を演じる者たちへのメッセージなのだと感じた。演劇に完成はないと伝えたかったのではないかという解釈ができる。男と女が考えたように、ドアの外はどんなモノがあるのか、壁の向こう、床下はどうなのか、なぜリンゴの木があるのか、男と女の以前の生活、飛び出していった男のその後、残った女のその後、あらゆるモノの「完成形」が無限に想像させられる。演技をする者として勉強になる作品だった。

金沢伏見高校のみなさんお疲れ様でした。


9 石川県立金沢辰巳丘高校『霹靂』

日本の中世~近世あたりと思われる架空の年号「安寧」の時代の村「高槻村(たかつきむら)」が舞台である。

舞台上には六つの平台がバラバラに配置され、登場人物の家と生活する村の地区を表現し、登場人物にコロスとしての役割も与えシーンの間に、国家権力「柳宮軍(ゆうえいぐん)」、人を襲うと村の古文書「秀明禄(しゅうめいろく)」に伝えられ迫害された妖怪「襲(かざね)」 の存在や、男子が生まれてもすぐ死んでしまうという祟り等、和風の世界観がWikipediaの記述のように説明され、まるで実際の歴史であるかのようなリアリティを帯びていた。

登場人物は村の長で農家の「燈里(ともり)」、北地区の染物屋「市夏(いちか)」、南地区の呉服屋「琴葉(ことは)」、西地区の剣士「惟(のぶ)」と酒屋「榮(さかえ)」、東地区の双子の米運び「安芸(あき)」と「粟生(あお)」。

着物や職業などで個性を付与された登場人物たちの人間関係はわかりやすいもので、物語開始時はとても仲が良く、強い友情が感じられた。

しかし、祟りによって男子が死に村が滅ぶことを危惧した登場人物たちは、古文書に書かれている生贄の儀式を行うとともに、原因とされる襲は誰であるのかということ、妨げられる反対意見、そして突然の登場人物の死によって皆が疑心暗鬼になり、パニックにおちいっていくというとてもサスペンス色の強い内容の劇である。

終盤の襲である正体を明かした琴葉の口から人間とほとんど変わらない襲の実態、祟りの真相は柳宮軍が送る軍師米に盛られた毒によるものだったことが語られるシーンでは「人は私たちが生きることを許してはくれない!」というセリフが印象的で、理解しようとしない民族問題の悲しさが浮き彫りになり、襲の迫害、迷信という概念の薄い時代における言い伝えの持つ影響力の強さ、人間の不安と恐怖によりもたらされる悲劇から、かつてのヨーロッパにおける「魔女狩り」を和風に移植したかのような雰囲気も少し感じられた。

単に世界観の設定だけでなく萩原朔太郎の『灰色の道』、『こころ』といった詩が劇中に挟まれたり、朝顔や彼岸花など花を意味深なキーワードとして散りばめていたりした。 タイトルの「霹靂(へきれき)」(雷を意味する)も急激で予測のできない展開、驚きの事件の真相などで納得がいく。

そして登場人物の立ち振る舞いまでもが細部まで緻密に表現されていた脚本と演出にはエンターテインメントとしての面白さが滲み出ており非常に感銘を受けた。

金沢辰巳丘高校のみなさん、お疲れ様でした。


10 石川県立金沢二水高校『三月記~サンゲツキ~』

この劇は、卒業式の朝、答辞の練習をする生徒(田中)とそれを指導する国語教師(山本)との会話から始まる。序盤は楽しげな会話が進んでいる。この会話劇が非常に自然で、テンポが良く、セリフが生き生きとしており飽きることなく進んでいく。山本のおかしな発言に鋭くツッコミをいれる田中が、とても面白く観客をうまく劇の世界の中に引き込んでいた。だからこそ、終盤の山本の自殺という衝撃の展開に驚かされた。最後の山本と田中の会話には目頭を熱くさせるものを感じた。終始、観客の心をつかみ離さなかった役者の演技の賜物であった。

この劇のテーマは「去る者の言葉」だと思う。去る者の言葉から、残された者が影響を受け、成長していくのではないだろうか。そして、この世を去った山本の最後の言葉は「あ(したへと)、り(くの境界)、が(んぺきを)、と(び越えていく)、う(みの向こうへ)」である。この言葉をうけて田中のこの後の成長が、山本の死をきっかけに、他者のことを真に気遣う人間になることを願いたい。また、劇を最後まで見終えてから、序盤に山本が言っていた「言葉」の一つ一つが山本のS.O.Sに聞こえ、それらに気づけなかった田中が我々観客とも重なり、一体感を持って劇の世界に入り込めた。

舞台装置については、後方に設置されていた装置が来賓席とも屋上とも捉えられるようになっていた。また、最後の中割幕が葬式を連想させる黒色であった。漆黒が照明に映えて美しく素晴らしかった。照明については、所々で青色の明かりを地明かりに足してあり、山本の心の内に秘めたる苦しみをうまく表現してあった。控え目な照明は劇中の「本当に苦しいことは自分が苦しいと言えないこと」という言葉の心象を表しているようであった。さらに山本が自分の夢に絶望し、虎になった「山月記」の李徴とも重なり、山本の言葉や心情が伝わってきた。山本が飛び降りる際も、「死」を連想させられる赤色のホリゾントをあえて使わないことで、一層山本の孤独が強調されていた。

演出については、山本役を女性が演じていたことが衝撃的であった。潤色などをして山本を男役にせず、あえて女性が演じることで女性が演じることで、女性の高く通りやすい声が山本の「言葉」をより一層伝わりやすくしていた。全体を通して、場面と雰囲気の切り替えがうまく、観客を飽きさせず、命や言葉について深く考えさせられた。

金沢二水高校のみなさんお疲れ様でした。


11 石川県立金沢桜丘高校『テレパシー』

この作品の題名である「テレパシー」とは、本来相手の気持ちを五官に頼らず感じ取ったり、自分の気持ちを相手に届けることである。しかし、この劇では使用されるテレパシーは、相手に触れていなければ発動しないという変わった特徴を持っている。

一人でポツンと座っている王様のもとに、夜食を買った帰りの女子高生が偶然訪れるシーンから始まる。明らかに変な格好をし、コンビニなどの現代では普通に使われる言葉も知らず、更に女子高生が買ったメロンパンを勝手に食べだす、少しおかしな王様と女子高生の会話が始まる。話していくと、王様の憎めない素敵な性格と内に秘めた熱い思いが伝わってくる。

この作品のテーマは「思いを届けることの大切さ」「愛」「おとぎ話」の三つで構成されていると感じた。相手がまだ自分の手の届くキョリにいる間に思いを伝えなければ、手遅れになってしまうということに改めて気づかされることが多かった。しかし、手遅れになってしまった時、言葉でも体温でも伝えられなくなった時、それでも相手に伝えたい時、どうするべきかを考えさせられた。伝えることを諦めてしまうか、それとも王様のように熱い決意を胸に信じ続けるかという選択の場を強く意識した。

また、彗星と王様の間、少女と王様の間にあったそれぞれのモノは明らかに異なるものであったことも印象深い。少女と王様の間にあったモノは、愛ではなく、高校生の持つ、まだ捨てきれない少女性をもとにした夢や空想に対する漠然とした憧れではなかったと感じた。王様が何も言わずに去ったことで、それが現実にはかなく打ち砕かれる世間の非情さを垣間見ることができる。しかし、彗星と王様の間にあったモノは、確かに愛だった。現実で離ればなれになっても、王様は彼女への思いで宇宙を駆け、彼女に会うことをずっと願い、信じ続けている。二つの関係が悲しい終わりと前向きな終わり、それぞれを迎えたのは、二つの形が違ったからであろう。

印象に残ったのは、少女が王様にテレパシーを試みるシーンだ。少女と王様の目線が合っていないという細やかな役者の演技に心打たれた。またその後、本当は彼女のテレパシーが聞こえていて、彼女の夢を壊さないために、自分をおとぎ話の中の存在に留めておくためのわざと聞こえていないフリをしていたのではないかとも考えることもできた。

舞台装置は、吊りものを使って幻想的で不思議な雰囲気を演出していた。また季節や場所を感じさせるものを配置しないことで、あえて抽象的な劇の世界観を感じることが出来た。ラストシーンで少女にスポットが当たる部分もメリハリがきいていた。

今作では彗星と少女を同じ役者が演じていた。声の使い分けが素晴らしかったが、両者には腕組みをよくするという共通の仕草を用いることで、彗星と少女は同一人物、または生まれ変わりだという解釈の余地が生まれていた。

全体的に面白く、優しく、暖かくそしてほんの少し切なさを感じさせる作品だった。人のぬくもりや大切なメッセージが、絵本のようにじんわりと伝わってくる素敵な作品であった。

金沢桜丘高校のみなさんお疲れ様でした。


12 石川県立小松明峰高校『エンジン』

この劇は、少しコメディ性もあり、友情などのさまざまな面で心温まる作品だった。千佳、真紀がスポットライトに当てられ立っている所から始まる。舞台は演劇部。四月の新入生入部から八月六日の大会までの日々をもとにして作られている。時には新入生が入ってきて喜んで、時には部員同士で喧嘩してなど、高校生の日常を描いたとてもリアルな作品だった。また、大会前に部員どうしが思いのすれ違いで大きな喧嘩をしてしまうなど、とても共感をもって飽きることなく見ることができた。

テーマは、部員との絆、他人が決めたことに従うのではなく自分で決めることの大切さであると感じ取った。最初は分からなかった「エンジン」という言葉が、色々な経験を積み重ねていくうちに少しずつ「エンジン」の意味を理解し、最終的には先輩の考えに縛られない自分たちの目標とする「エンジン」を作り上げる過程が印象深かった。最後に千佳が言った「円陣組んで、エンジンかけて、演人になりましょう。」という言葉が、彼女たちが導き出した新しい目標であると感じ取った。

舞台装置や小道具などにも様々な工夫が施されていた。音響についても軽快な音楽が多用され「女子高生の日常の中の青春」というイメージに合っていた。また、小道具についてはカレンダーを使うことにより本番までの時間の無さが伝わってきた。エンジンと書かれた額についても、部室では「エンジン」、劇中の舞台では「エンジンby先輩」と変えることで、部室と舞台の見分けがつくようになっていた。他にも、服装を変えて時間経過を表すなど、細かい点も工夫されていた。

演技の面では、四人で話している姿はとても微笑ましく、時には一年生と二年生の温度差が伝わってきてとても面白いと思った。一番最後の四人の「夢の舞台が始まる」という言葉には、四人の前向きな気持ちが表れていて観客をウキウキさせる言葉であった。

この「エンジン」という作品は友情の大切さ、努力することの大切さを伝え、見る人をほのぼのとさせるとても温かい劇である。見終わった後も、もう一度見たいという気持ちが膨らむとても素敵な作品であった。

小松明峰高校のみなさんお疲れ様でした。


13 石川県立七尾東雲高校『THE SHELTER』

核戦争が起こったというシチュエーションのもと、核戦争用のシェルターで過ごす家族の物語であった。実際にその核シェルターが使い物になるかどうかを確かめるための実験だったが、途中であらゆるものの管理をつかさどっているコンピューターが動かなくなってしまう。そんな危機の中、家族は子供の頃に台風の日に感じたワクワクした思い出を語り始める。シチュエーションは「外からミサイルが飛んでくる」、状況は「制御装置が壊れ絶望的」にもかかわらず、中では家族は能天気に楽しく台風の日の話をしている。これは、現在の日本にも共通することのように感じた。世界では常に紛争や戦争が起こっているにもかかわらず、日本人はまるで他人事のようにニュースを眺め、他人事のように今を楽しんでいる。ある意味、この劇は平和ボケした日本人に対する皮肉とも捉えることができる。そもそも台風というもの自体、危険なものであり、楽しい思い出のみとして能天気に語ることが風刺につながるのではないかと感じた。

舞台装置に関しては、大胆に設置されたパネル、グレー一色というシンプルなものだった。空間を狭く見せることでシェルターの圧迫感が表現されていた。それと同時に、一定間隔で置かれたパネルの隙間には、世界は繋がっているという意味も込められているようにも読み取ることができる。音響では、同じ曲が何度も使われており、デジタルチックな雰囲気を醸し出し、観客を引き込んでいた。また照明の工夫が各所に散りばめられていた。暗さに応じて変えられる照明は、自然でよりリアルさを表現していた。

ラストシーンでは赤とんぼに赤風呂敷、赤い傘に赤い夕焼けなど、グレー一色だった舞台に赤が映え、詩的で綺麗な世界が広がっていた。その赤に囲まれてサトコがシェルターを見つめるシーンでは、それまでの中立の立場であり、自分からは意見を出さずにいたサトコの明確な意志を感じ取ることができた。これ以前のどこか機械的で単調な話し方が、サトコの変化とともに変わっていく姿が印象的だった。

さらに家族との話によって少し丸くなった印象の父親だか、最後に自分の仕事である実験を放棄してトンボを捕まえに行こうと言い出す。仕事に対する責任と情熱は一番だったのに、彼のどのような心情の変化が起こったのかが気になった。閉鎖されて平和ボケした空間から飛び出した彼は、子供のように無邪気でありながらどこか儚い印象がある。

この脚本は三十五年前に書かれたものであるが、核戦争の危機がすぐそこにある今でこそ私たちが見逃してはいけないものを語れている。

七尾東雲高校のみなさんお疲れ様でした。


14 金沢大学附属高校『トシドンの放課後』

この作品の登場人物は三人。離島出身の不良高校生森田あかねと、生徒相談室に登校している平野薫、そしてあかねの担任教師の長山である。

物語はあかねが教師に無理やり相談室に連れてこられる所から始まる。教師に課題と反省文を出され、あかねが教師に反抗するシーンは迫力があった。そして次の日になり、あかねが平野と初めて会話をする。あかねは平野に反省文の代行を頼む。ここで二人がスクールバッグからペンケースを取り出すときにお互いのバッグのストラップの数の違いに個性が表れていた。2人は会話を通してお互いを知っていき、段々距離が縮まっていった。平野が書いた反省文は教師に絶賛され、あかねの謹慎は数日でとけることとなった。それを知った平野の心情をオレンジと黄色の混ざったのホリゾントを使い、嬉しくも複雑な気持ちを表しているように思えた。こうしてまた平野にとって同じ日々が始まるように思えたが、あかねは過ちを繰り返した。また相談室に連れてこられ、教師との言い合いとなる。この時のホリゾントは赤く、あかねの怒りの心情を表しているようであった。あかねは教師に、そして理不尽な世の中に反抗する。そんなあかねに教師は自分の努力を基に喝を入れる。このシーンは2人とも大声で怒鳴るように言うのではなく1つ1つの言葉をしっかりと相手に伝えようと丁寧にセリフを言っていたのが印象的であった。また謹慎に戻ったあかねは、平野と妖怪の話で盛り上がる。そこであかねは地元である離島に伝わる伝統の妖怪、「トシドン」を思い出す。地元と亡くなった父を思い出し、涙ぐむ場面の無対象演技はつられそうなほど自然であった。そして暗転し、青いホリゾント使い、進級できないことを伝えられがっくりしている平野とそれを慰める教師の演技がシルエットで映しだされており、平野のこらえきられない悲しみを表現していた。平野は進級できなければ、通信制の学校に転校することとなっていたのである。そして進級できないことを知ったあかねは、教師に反抗しに行こうとするが、平野はそれを止める。平野は自分の小ささやみじめさをあかねに伝え、段々と精神的に弱ってゆく。この時のホリゾントは紫色で絶望と平野の複雑な心境を表していた。あかねは、そんなどん底に自ら飛び込んでいくような平野を彼女が作ってくれた「トシドン」のお面を被って激励する。ここであかねは島の方言を使う。使うことで「本当に伝えたい」という思いがヒシヒシと伝わってきた。どんどんホリゾントはピンク色に変わってゆき、あかねの怒りのような激励がヒートアップしてゆく。「ありがとう…!」「ありがとう…!」と何度も繰り返す平野と必死に彼女を激励するあかねの平野への愛にとても心を打たれた。最後の帰りの会は、二人揃って深く礼をした。緞帳が下がりきる前に、二人は少し姿勢を直し、見つめあって笑いあっていた。これはお互いに対しての「ありがとう」という気持ちやこれからの二人の可能性やつながりを表しているのではないかと思った。

たくさんの色で登場人物の心情を表し、広い舞台の中心に机や黒板を寄せ、狭く使うことでより「教室」というリアルな空間を作り出すことができていた。その空間の中で平野の机を孤立させることによりリアルな人間関係をみることができた。

金沢大学附属高校のみなさんお疲れ様でした。


15 石川県立金沢泉丘高校『いちょうの実』

この作品は、田舎に住んでいる主人公、唯が大学進学のため上京する朝の風景から始まる。唯と兄は、バス停でバスを待っている。その時に兄は妹が小さい時に母によく読んでもらっていた絵本について話すことで物語が始まる。

この作品を見た第一印象は、全体的に美しく暖かいものにあふれているということだ。テーマは「家族のあたたかさ」「自立」ではないかと考えた。唯が兄のことを心配したり、兄が唯を気遣ったり、母から娘にあてた手紙があったりと、家族の暖かみを感じる場面が多かった。最初のうちは、距離をおいて顔を合わせることもなく、少しぎこちなく話していた兄妹だったが、だんだんと顔を合わせ、目を合わせて話し、最後は近づき、手を触れあい、バスに乗り別れていく。距離的な別れがあっても、心理的にはより近さを感じることができる場面であった。

また、はじめのうちは気が強い印象があった唯だったが、母からの手紙を読んでいくうちに、幼い頃母が寝る間も惜しんで絵本を読んでくれたことや、家のために兄が大学進学をあきらめたことなどを思い出す中で、唯自身の繊細な部分にも触れることができた。最後に「お母さん」とつぶやくシーンでは、彼女自身の成長が感じられた。絵本の内容の再現である、いちょうの子供たちのシーンも黄色を基調とした全体的に明るい可愛らしい中にも、色々と考える部分が多かった。特に、いちょうの子で薄荷水をもらえなかった子が寂しがっているシーンは、疲れている母に遠慮をして絵本を読んでと頼めなかった兄の気持ちとよく似ていた。いちょうの子供たちがおっかさんのことを想う気持ちと、唯と兄が母を想う気持ちがよく似ていると同時に、自立という旅立ちも似ていると感じた。

舞台装置では、いちょうの葉を実際に舞台上に降らせた演出が印象的だった。また、黄色の照明を使うことで、全体的に明るくそしておっかさんの大きな愛が感じられた。バスを待つ兄妹が絵本の内容を思い出し、暖かな気持ちで旅立つという構成もとても分かりやすかった。改めて、家族のあたたかみを感じられる劇であった。

金沢泉丘高校のみなさんお疲れ様でした。


16 石川県立工業高校『きらきら』

この作品のテーマは、「命」、「母と子」、「家族の在り方」であると感じとった。それぞれ色々な考え方をしている「母」を高校生と老婆という対照的な立場で描いたものである。印象としては、ファンタジーのように思われたが、高校生が妊娠するといったシビアでギャップのあるものに感じた。また、一つ一つのセリフが命や家族などを考えさせるものばかりで、重くもあり、暖かさも感じた。

舞台装置、音響、照明にも工夫がされていた。まず舞台装置では、離れて配置されていたリボンが繋がったことで命や心が繋がったことを暗示している。造形としは抽象的であり、派手な色は使わずにシンプルなものであり、それが劇の内容に合っていた。音響や照明はタイミングのズレもなく、スムーズに進み違和感なく観ることができた。高校生の場面と子どもの場面とでホリゾントの色に変化があり、場面の変化が分かりやすかった。老婆の場面では、ホリゾントの変化ではなく、スポットライトを当てて老婆の孤独感が表現されていた。場面転換の際は、素早く動くことで迅速に行われ、気持ちが途切れることなく次の場面に入ることができた。飽きることなく最後まで見ることができた。

タイトルの「きらきら」は「新しい誕生」や「命の大切さ」を意味しているのではないかと考えさせられた。どちらの意味も現代人の大きな問題に関係している。例えば少子化の問題や、劇中になった虐待や育児放棄、高校生の望まない妊娠など、一見、自分自身には関係ないもののように思えるが、どれもがよくニュースなどで取り上げられているものであり、実は自分たちの近くにあるものだと改めて感じた。特に私たち高校生は、これから親になっていくことを考えると、これらの社会問題だけでなく、命の重さや命の大切さをよく理解していく必要がある。自分は絶対子どもを大切にすると思っていても、もしかしたら大切にできない場面が出てくるかもしれないという不安も感じた。だからこそ、どうやって命と向き合っていくかを考える契機となった。改めて命とは何なのか、どう向き合っていくべきかを考えさせられる、また、現代における身近な「子どもの命」に関わる問題について認識することができた。

県立工業高校のみなさんお疲れ様でした。


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