第70回石川県高等学校演劇合同発表会

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生徒講評


1 星稜高校『Our history』

幕が上がると、そこにはしぼった照明に照らされた警備室があった。狭いその一室は星稜高校にある。この劇は、その部屋に飛びこんできた女子高生と警備員の言い争いから始まる。家出少女を通報しようとする警備員、それを拒む女子高生。そこに現れた杖をついたおばあちゃん。「夢を持つ必要性」について悩む女子高生におばあちゃんはこの学校の歴史について語り出す。

この作品のテーマは「世代から世代への夢」だと思う。おばあちゃんの話はこの学校の設立についてであった。ここで舞台セットが変わり出した。警備室を片付けたのではない。その形を活用したのだ。カーテンを引けば障子が現れ、木箱は勉強机へと変化した。舞台セットを変える間もパフォーマンスとして観客を楽しませる工夫に驚かされた。戦時中に簿記学校を開校した校長と、その元へ集まった生徒たち。男女共学に戸惑う仕草によって、現代と昔の感覚の違いにはっと気づかされた。会話が自然で、テンポがよかった。校長先生に事実を求める生徒たちの必死な顔に観ていたこちらも生徒たちと一緒に問うている気持ちになった。序盤のコミカルな部分でキャラクターたちに愛着がわいたため、後半はその観客をうまく劇の中の世界に引き込んでいたと思う。校長の苦渋の決断の結果、この学校が廃校を免れるために女子校になることが分かった時、男子は誰も女子の方を見ることが出来なかった。この時、男子と女子のどちらか一方に気持ちを寄せることができなかった。さっきまで男女合わせての「生徒ズ」として好感をもっていたからである。学校から男子生徒が去り、そのまま終戦を迎える。警備室へと舞台は戻った後、校長先生の「誠実にして社会に役立つ人間の育成」の夢は昔から今までずっと変わっていないのではないか。変わったのはその周りの環境ではないかと感じた。戦争前は校長先生の夢があまりにも先進的であったため、その夢に賛同する生徒たちだけが集まっていたが。しかし戦争後は学校の規模も大きくなり、入学する生徒たちは女子高生や警備員のようにこの「夢」に気づかないまま入学するようになっていた。今回の劇は、家出した女子高生のように、埋もれて見えなくなっていた「夢」に気づき、掘り出し、次の世代に渡すまでそのバトンをしっかり受け取っておくことを知る話なのだと感じた。

舞台装置については、同じ「場」で時代が過去に戻ったり、現代になったりすることで、「時」がつながっていることを感じることができた。また衣装も再現度が高く、作りこまれていると感じた。校長先生の衣装が基本的に変わらず、生徒たちだけ衣装が変化していたところが子どもの成長の早さを表現するのに効果的だった。照明については、幕が開いた当初は警備室だけの狭い範囲だけ照らしていたが、過去の様子が語られるにつれて広がっていくところが、場面転換の役割も果たされていた。演出については、警備員と金沢市の役人のキャストが同一人物であったことに意味を読み取ることができた。「会社のために働く」警備員と「お国のために働く」役人を重ね合わせているのではないかと感じた。全体を通して、時代の雰囲気の切り替えが上手く、観客を劇中に引き込み、過去と現在の価値観の違いや夢を受け継ぐ意志の強さ、自校への誇りについて考えさせられた。

星稜高校のみなさん、お疲れ様でした。


2 七尾東雲高校『糸~脆さは心の重さ~』

芥川龍之介の代表作『蜘蛛の糸』をアレンジしたこの作品は、放火や盗みなどを数多くやった大悪党カンダタが地獄に落ちたが、生前一度クモを救ったために、お釈迦様が慈悲をかけ、クモの糸で地獄から救い出してやろうとする。しかしカンダタの身勝手な発言のため結局カンダタは地獄へ落ちてしまう、というところまでは原作と同じである。それに加えられたストーリーの中でそれぞれの登場人物のキャラクターなどが掘り下げてあった。

お釈迦様のセリフである「命あるものはすべてみな平等。」と「!いやあ!ゴキブリ無理!誰か!はやく!ジェット噴射して!!」からは、いくらお釈迦様だとしても自己矛盾が生じており、「誰が決めたか知らないけれど、私はお釈迦様なんだから。」というセリフから分かるように、結局はお釈迦様も権力をもったただの人間、自分の存在にも責任を持たない無慈悲な存在を表しているのではないだろうか。

テーマは「人間の持つ先入観・善悪」「人間の理不尽さ・矛盾」ではないかと考えた。カンダタや語り手のクモは殺されないもの、ゴキブリは殺してもよいものといった先入観と、人間が考え、行動することを決めて善悪を訴えているようにも感じた。また生まれ持って全ての人に与えられているのは平等な不条理さであって、そこから理不尽さと矛盾が表れているのではないだろうか。

工夫点としては、カンダタがクモの糸を上ったり落ちたりするパントマイムがスムーズで違和感がなかったところがあげられる。また、極楽と地獄で上手と下手で分けてあったが、極楽から地獄を見るときに上手側をみるのではなく、客席下を見ていたことで、極楽と地獄の距離感を感じることができた。お釈迦様の白い衣装の下に黒いスカートをはくことで、内面の腹黒さを表しているにではないかという意見もあった。

また、テーマととらえた理不尽さやお釈迦様の矛盾をもう少し掘り下げた方がよく、話題を絞りきれていない部分もあり、伝わりにくかったという意見もあった。カンダタとお釈迦様のキャラクターが不透明で、上演後は劇の内容も相まってどこかもやもやとした印象を受けた。しかし、キャストや演出の工夫点が多く、観客にも伝わりやすい内容となっていたのではないだろうか。

この『糸~脆さは心の重さ』という作品は人間が創り出す人生の理不尽さ、矛盾がいかなるものかを伝え、どのような人だろうとも、どこかに差別を持っているのではないかということを考えさせられた。全ての人に与えられる平等とは、「チャンスや好運」ではなく「不条理さ」なのではないだろうか、と考えさせられる作品だった。上演後も脚本を何度も読み直してやっと少し理解できるような難しい内容だったが、キャストの演技や照明、音響などの演出で随分、分かりやすく伝わりやすくなっていたような素晴らしい作品であった。

七尾東雲高校のみなさん、お疲れ様でした。


3 北陸学院高校『JK3人ぶらり地獄めぐり』

白い三角巾をつけ登場する女子高生。亡者となったチカと出会い、物語は始まっていく。「JK」ならではの速いテンポで会話が進んでいき、とても楽しいものだった。そこでパッと中割幕が開き、軽妙な音楽とともにダンスが始まった。エンターテイメント性が高く、そのポップさはつかみとして最高だったと思う。見終わった後からは、あえて明るくすることで、現実と向き合うことから逃げた人々が何も考えていないことが表現されていたのかと思った。また、中割幕は牛頭と馬頭の漫才の幕として使われたり、閻魔大王のパネルが出てきたりと効果的に使われていた。次は何が出てくるのだろうというドキドキ感をあおられた。血の池地獄と針の山地獄の演出もたいへん面白かった。階段を活用し、動きのあるコミカルなシーンだった。また、それぞれの地獄の亡者たちが真顔で罰を受ける姿にはシュールなおもしろさがあった。次々と地獄を攻略し、自殺に後悔などなく、死を軽く考えていた3人が前半で描かれていた。

閻魔大王が再び登場し、本当の地獄を見せられるところから物語はさらに動く。吊りものやパネル、スピーカーを使った演出はしっかり工夫されていたため、そこがシリアスなシーンのきっかけであったと後になって気づかされた。鏡の中に映し出された自分たちを見て、「誰も私のことを分かってくれない」などと他人のせいにするセリフはキャスト等がそう思っているかのような説得力があり、誰でも共感してしまう弱さが出ていた。「隠された自分」を見た後、自分が弱いから苦しいと口々に言うシーンでも同じように思わされた。部長とミヤビが同一人物で演じられていたが、この2人は主人公たちにとってのキーパーソンであり、冷たい態度ではあったが、相手の成長を誰よりも考えた人物であった。ここでの別のキャストを使わないことも一つの演出であると受け取った。

この劇を通して、他人との関わりの中で自分自身に焦点を当て、見つめ直すことの難しさを学べた。そのような生きることの難しさがあるからこそ、「この世」も「あの世」も地獄になりうるのだという言葉には納得させられた。本当の自分をつかみきることは出来なくても、3人の女子高生は自分から逃げずに向き合いながらこれからを生きるのだろう。自殺や地獄を扱ってはいたが、前向きなラストで楽しく見ることができた。落語が元ネタとなっているこの台本は、人間が想像したものに対しておびえる私たちを女子高生のノゾミやチカ、ユキコがからかうような物語だった。自殺をした3人がやってきた地獄は明るく、こわさを感じられない場所であった。しかし、閻魔大王が見せた本当の地獄では現実世界の自分たち自身を向き合っていくことになる。

北陸学院高校のみなさん、お疲れ様でした。


4 金沢龍谷高校『夏芙蓉』

この劇は、深夜の教室に主人公である千鶴が一人ぼっちで座っているシーンから始まる。舞台上には机と、卒業を祝うメッセージの描かれた黒板が配置され、卒業式後の教室であることが分かる。そこに制服姿の女生徒が深夜に一人だけで座っている、という状況は何か少し不思議で、寂しさを感じさせる。しかしそこに、舞子、サエ、由利の3人が現れた途端、4人はおしゃべりに花を咲かせ、明るい、楽しげな日常が描かれる。だが、会話が進むにつれ、少しずつその内容に食い違いが生じていき「真実」へと近づいていく。この一見すると何でもないような食い違いが、観ている我々をどこか不安にさせ、真実が明かにされた時、心に抱いていた違和感に合点がいく、といった、まるでパズルのように脚本が構成された劇だった。無駄話のように感じる日常会話の一つ一つが伏線となっていて、見終わった後、もう一度見て確認したいと思わせるほどに全てのセリフが伏線ともいえる作品だった。この作品で強く印象に残るのは、やはり舞子、サエ、由利の真実が明かされるシーンだと思う。それをいかに強く印象づけさせるかがこの劇のポイントだと思った。そのためには、真実へと向かっているまでの日常会話を工夫し、観客を引き込むことが大切であると思う。はじめは3人と千鶴の真実について真逆に考えていた。このことから4人の中で千鶴だけが真実を知っていることを表現しきれていない部分があるのではないかと感じた。千鶴が3人に話を合わせようと必死になっていることを上手く表現できれば、より良いものになると思った。

この作品のテーマは「日常のはかなさ」なのではないかと感じた。何も考えずに聞いていた日常会話が伏線であると知り、もう一度確認したいと我々が望んでもそれが叶わないように、あたり前のこと、取りとめのないこと、それらは一度きりのことで、ついついおざなりに扱いがちだからこそ大切でかけがえのないものなのだと気づかされた。

印象に残ったシーンは、翌朝、千鶴と先生が教室で話すシーンだ。3人と話していた時には見られなかった千鶴の思いが明かされるシーンだ。日常会話では絶対に見られないシーンだからこそ、非日常感、日常の終わりのような雰囲気が表れていた。またその後、千鶴が「私たち、一緒に卒業したんです」と先生に言うシーンがあったが、そこでは先生は千鶴に「分かるよ」と言うが、千鶴はその共感、理解を「絶対分かってもらえないと思います」と否定した。これには、3人と千鶴の間にある他人には分からない強いつながりの存在を千鶴には自分自身に確認したかったのではないだろうか。一人残された千鶴の、胸の内にある思いを吐き出したくてしょうがなかったという千鶴の気持ちが伝わってくるようである。

深夜ということもあり、暗めの照明で登場人物の表情が少し分かりづらいようにも感じた。声の抑揚や動きの演技でカバーできてはいたが、繊細な感情を表現しきれないのではないかと感じた。全体的に面白く、日常からシリアスな話しへと移っていくギャップが印象的だった。真実が明かされた時のハッとさせられる感覚を観客にもたせる工夫がなされていて、演技をする者としてとても勉強になった。

金沢龍谷高校のみなさん、お疲れ様でした。


5 野々市明倫高校『宮川駅物語』

この作品のテーマは、「人とのつながり」「親子の形」「責任」であると感じとった。子どもを持つ2組の親、その周りに親をうしなった高校生という親と子ども両方の視点が示されていた。印象として初めはのどかで明るい雰囲気の中、楽しそうにしている様子が印象的だった。また、言葉一つ一つがその人たちの言葉であるから、説得力があり私たちは引き込まれていったのだと思う。

もう少し掘り下げていくと、舞台セットが素晴らしかった。一つのセットで空間が3つできるというところで工夫が感じられた。他にもセットの色が暖色でつくられていて、とても温かく感じた。劇中の朝倉さんにセリフに「幸せは場所がくれるものではない。人と人との繋がりがくれる。」というのがあった。場所がくれるものではないけれど、あの場所も暖かいように感じた。また、照明や音響もとても良く工夫されていたと思う。例えば、セミの声を使い夏や田舎の様子を表現していたり、電車の音があったり、照明では朝から夕方まで違和感がまったく無く、少しずつ変わっていき、ラストの夕焼けとストップモーションがあったりしたところだ。演技面にも多くの工夫やリアリティーがあった。例えば、高校生で妊娠してしまった子とやっと子を授かることができた男性との場面では、男性が高校生に自分の子の写真を見せた時、高校生はその写真を折り曲げそうになった。そこには激しく動揺する彼女の気持ちが出ていたのではないかと思う。

この作品では、駅員の朝倉さんが登場人物全員の「親」のような役割をしていて、内容が濃く、複雑で重ためのストーリーでまとまっていた。後半にいくにつれ、はじめの楽しげな雰囲気よりも命について、人の心、親子の愛情についてやさしく、しかし真剣な雰囲気になっていった。役者の演技はもちろんのこと、よく考えられ工夫を凝らしたセットや音響、照明がしっかりとした空間を作り上げていた。最後は現在に戻り、昔不良だった林は警官になり、高校生で妊娠した女生徒は自分の意思で自分の子どもを育てていた。その場面をあえてサイレントで繊細に描いているところが素晴らしいと感じた。動きが自然で本当に演者と登場人物がぴったりと合っていて、話の流れも入ってきて良かった、また、歩く姿勢だったり話す姿勢だったりがキレイでより動いている時との変化があって印象深かった。このような事件は身近にはなくても登場人物の気持ちが行動や表情から分かりやすく伝わってくる。そんな感じがした。目だけでなく「心」まで引きつけられる感じの劇だった。

野々市明倫高校のみなさん、お疲れ様でした。


6 金沢大学附属高校『弦の音が聞こえる』

美しい。この作品を表すのにこれほどふさわしい言葉はない。静けさとピンと張りつめられた緊張感。弓道ならではの雰囲気が会場全体を包んでいた。

まず、弓を引くときの姿勢の美しさにハッと息をのむ。的の中心をねらった視線と集中から持っていないはずの弓が見えてくる。とてもパントマイムとは思えず、弓道場の緊張感は客席までもシンとさせた。そして、その緊張感は暗転の真っ暗闇の中でも途絶えることはなく、すり足で移動するときの「サーサー」という音以外は何も聞こえない。その静けさが観客の気持ちを引きつけ、物語に入り込むことができた。

この物語の内容においては「弓道」をもとに描くことで「日本の伝統」も表されていた。「挨拶から始まり挨拶で終わる」「道具を丁寧に扱う」「もめ事をしない」というルールから「相手を理解しようとする」大切さも見受けられる。部活動という私たちに身近なものの中で、私たちがつい忘れてしまいがちな心構えを部員に注意することで、礼儀や作法がいかに大事なことか伝わってくる。また、この物語は金沢を舞台に描かれており、金沢弁を使って話をしていたり、「金沢駅」や「百万石まつり」など馴染みや親近感がわくと同時に、日本の中でも「金沢の伝統」というものが表されていた。「伝統」というと、劇中では金沢にゆかりのある前田利家公と毛利元就公の名言が登場する。この二つの名言は彼ら梅崎高校弓道部の危機を救ってくれる。本当に優れたものは時が経っても色褪せることはない。これが「伝統」というものであると思うが、この物語でいうと弓道と武将二人の武将の言葉であった。

最初の武将の言葉は「人間は不遇になったとき、はじめて友情の何たるかを知る」という前田利家公の名言である。入部したての千鶴という女の子は一人で行動したり、一人で解決したりしようとするので本当の友人と呼べる人がおらず、この言葉などを信じてなどいなかった。そんな千鶴だが、中学2年生のときの北信越大会団体戦で失敗してしまい、その失敗がきっかけで彼女の全国大会への夢は途絶えてしまう。その時の先輩の泣き声が大会になると蘇ってしまい、それ以来大会で一発も当てられなくなってしまっていた。練習の成果から団体戦の出場が決定したが、やはり練習大会でミスをしてしまう。本番まであと少しのところで部活に来なくなってしまう。もう一人の1年生の凛はやる気があるが、型はあまり美しくなく礼儀や作法もところどころなっていない。おまけに千鶴の過去を知らず無神経なことを言ってしまい、千鶴を傷つけてしまっていた。凛はこれ以上足を引っ張ってはいけないと退部届を出す。そんな凛が荷物を取りに来ると、千鶴が部活動時間外に練習しており、そこで二人は弓道を始めたきっかけを話し出す。二人は同じく弓道が「好きだから」始め、そして「好きだから」頑張ってこられたのだという。また千鶴の場合、「好きだから怖い」のだと。二人の弓道生命が途絶えようとしていたとき、互いの「源」を探り、互いの気持ちを確かめ合う。そうして二人の弓道に対する思いと友情はより強く固くなった。これはまさに利家公の言葉通りであった。

そうして大会当日、千鶴は不安な面持ちで現れ、そんな彼女に部員は梅崎高校弓道部の弓を渡す。そこで部長の優子が答える。この弓は部のもの、つまり弓道部員4名の弓。仲間全員で引いているのだから、失敗しても成功しても、その気持ちは分けれらるのだと。これは「矢は一本では簡単に折れてしまう。けど3本束ねたら簡単には折れなくなる」という毛利元就の言葉からきている。そして千鶴は千鶴自身と部員3人と弓を引く。この場面もこの演出が素晴らしかった。普段の練習のシーンはきれいな型をみせるためにも上手に向かって弓を引いていた。しかし最後のシーンは客席に向かって弓をひいた。今この時に的に向かって弓を引く千鶴を先頭にひし形に並び、4人全員がねらいを定める。千鶴にスポットが当たって部員全員の気持ちがその一点に集中しているのが分かる。そして客席に向かって矢が放たれる。その矢には金大附属高校演劇部のこの劇への思いが込められており、その全てが矢と共に観客を刺さった。緞帳が下がりきった後の余韻からそれが感じられた。こんなにも余韻の残る作品は他にそうはないだろう。千鶴と凛のこれからが楽しみになる作品であった。

金沢大学附属高校のみなさん、お疲れ様でした。


7 金沢泉丘高校『トロイメライ』

おしばいが始まり、幕が上がるとそこには3人の人物がいた。音楽が始まると同時に音楽の速さに合わせてその3人も動き出す。ゆっくりなスピードであればゆっくりと、又、速いスピードであれば速いスピード。観客席から見ていた時、「この3人は何をしているのだろう?」と思うことと同時に「見たことがあるような動き」を感じた。その後、舞台の真ん中ではサキとカイの2人の人物が残っていた。2人の会話は「宇宙は広く、地球にはたくさんのモノやコトがある」ということ。ココまでで私が感じたことは「不思議」「今まで見たことがないようなおしばい」だと思った。そして、どのような話なのか正直まだ分かっていなかった。しかし、ここからの話の展開で少しずつ分かるようになってくる。サキは3人目の人物ツユからカイが屋上から飛び降りたという話を聞くが、前の2人の会話でエターナルへ行くとカイが言っていた。ピアノの音と共に次は様々なおとぎ話を人々が語り、最後にたどりついたのが「雪の女王」という物語だった。この時の人々とは舞台にあがっていたのが3人。しかし、サキやカイ、ツユとは違う人物であり、同じ役者が演じていたのだ。このおしばいは同じ役者がいろんな人物を演じている。照明をうまく使いこなしたり、1人が語っている際に、他の2人は舞台上で観客にみせるように一つ一つの動きを意識していると感じた。このしばいの演出のひとつがここにあるのだろう。暗転がなく、そして役者が一度も舞台から出ていくことがない、これがトロイメライのすべてが意味しているのであろう。サキはツユからおばあちゃんから話してくれた「永遠の女王」の話しを聞き、サキはカイが行った場所へ向かい、永遠の女王に出会うため屋上から飛び降りたのだ。結果、サキは無事に女王とも出会い、カイをつれて帰ることに成功した。

しかし、そこまでの話が最初に思っていた疑問を解くカギがあった。まず、この話のテーマは何か。私は日常のひとつひとつが大切、人生のはかなさ、今を大切にすることだと思った。人物たちのセリフには宇宙というとても大きなものからフェイクニュースや友達や親子など小さなもの一番最初の曲にあわせた動きも含めて、私たちの日常生活にあるものではないかと感じた。この数え切れない多くのものが私たちの日常を忙しくさせる原因でもあり、また私たちにとってとても大切なものであるということではないかと感じた。そして最後に始めのサキとカイの2人の会話に戻る。最初聞いた時はその言葉は分からなかったが、ひとつひとつの演出や表現を通して、その言葉はもっともっと深く考えると日常にあるものの大切さが分かってくるのだ。

私が普段何気なく使用していたり、見ていたり、生まれる前からあったものの存在を私たちは大切であることは意識しているだろうか。このおしばいにもあるが時には世の中についていけなくなったり、今の世の忙しいと感じるだろう。その時はゆっくりと呼吸、ゆっくりと休んでみてもいいかもしれない。トロイメライはそんな不思議な気持ちにさせる力があった。

金沢泉丘高校のみなさん、お疲れ様でした。


6 金沢伏見高校『青春+自殺=?』

自殺という重い題材、そのはずなのに始まって感じるどこかポップな表現。一目見た印象は、予想を裏切られる驚きとこれから何が始まるんだという期待。全体を見終わってからでは、自殺という恐ろしいものを見せられるという恐れと、ポップ調で実は人が死なないのではないかという希望。この二つの引っ張り合いを見せてもらい、心の中が充実感で満たされた。

テーマを考察すると、やはり題材が自殺なのだから死の恐怖、人間の価値観、後は簡単に崩れてしまう命の在り方。そして、命というものは自分一人のみで扱ってはいけないものである。といったことが挙げられるだろう。

まずこの話の起こり、自殺志願者の会という自殺願望を持つ者達が集まる会に、何も知らない女子生徒が入れさせられることから始まる。そこからポップなギャグパートが始まり、それぞれの団員の自殺理由が語られる。会なのに団員なのか、という観ている方もツッコみたくなるような点で的確にツッコみを入れていたのは、観客と共有ができ面白い。舞台演出では、上手の花道を活用していて、他の高校と比べてあまり無い舞台の使い方が面白く、観る方を考えさせるものであった。

次に、中盤に近づくにつれ、この劇の題材である自殺というものが起こってしまい、ポップ調からの急激な場面の変化が感じられた。始めに自殺してしまった女子生徒は、それまでの語り手のような立ち位置を劇上で持っていたのだが、そんな人間が死んでしまい、誰が語り手となるのだろうか?と、思えばその自殺の原因を作ってしまった人物が語り手へと受け継がれ、そして、またその語り手が自殺してしまう。この語り手が移動していくという発想で、各々のキャラ付け、心象がはっきりとしていくのだと思い、とても面白く、また同時に関心もあった。

最後には、自殺願望が無かったはずのイヤイヤ入れさせられた女子生徒が、団長を受け継ぎ、新たな団員の加入を見届けて自殺してしまう。自殺なんてものは、重い理由が無くてもやってしまう事なのか?残された新たな団員は、団長が自殺するという事実を目の当たりにしてどうなってしまうのか?などのたくさんの疑問を投げかけられられ、自殺、命の在りようについてかなり考えさせられた。死とは、やはり軽いものでなく、重いものである。そんな死について、ポップ調で重ねることによって、より死の重みが引き立ち、観る人を考えさせる作品となったと思う。

タイトルについて考えた。青春に自殺が足されたらどうなるのだろうか?始めはポップ調と相まって、自殺が無くなるのではないかと思った。だが、そんな簡単なことではなく、実際は自殺との縁がなく、理由もない人間まで死んでしまう。色に黒が足されるように、自殺が足されたら何であっても自殺に染まってしまうという、負の連鎖。青春に自殺が足されたら、また自殺、それが続いていくだけである。そう考えた。

金沢伏見高等学校のみなさん、お疲れ様でした。


9 金沢辰巳丘高校『オフラインの彼』

この作品のタイトルを見て最初に抱いた印象は「ネット」の人とトラブルが起きる、だまされる話といった悪いイメージだった。そう思うのも、今の世の中でそのような「ネット」トラブルが多いからである。しかし、この作品は違った。

この物語はネットの掲示板サイトで出会ったシュウヘイと約束の場所で待ち合わせすることになった。そこに行くと他にもシュウヘイを待っているという女の子が2人いた。

3人の女の子たちはなぜシュウヘイが同じ日に同じ場所で3人を呼んだのか、シュウヘイを3人で待ちながら3人の過去を話していく。全員の過去を知った上でさらに仲良くなってがシュウヘイは2日前に亡くなっていた、3人の心の支えであったシュウヘイが亡くなって3人はこれからの不安を抱くが、3人で前に進もうとする話である。シュウヘイが待ち合わせの目印に選んだ赤いバラ、目印にするならハンカチでも良いと思うが、赤いバラがひとりひとりの命を表し、強く生きてほしいというシュウヘイの想いが込められていたことにとても感動した。

この作品のテーマは「人とのつながり」だと感じた。似ているような違うような3人が1人を通じて出会い、3人が孤独から卒業して前に進んでいくという孤独ではないことを強く表れていると感じた。

音響と照明は最小限であったが、しっかりと作り込まれていた。スポットライトを使い、ネットと現実を区別し、体を正面に向けて話すことにより、孤独感を感じるものになっていた。最後でもネットの中であることを表すためスポットライトを使っていたが、体を2人の方に向けることにより人とつながっているようにみせるという最初の場面との対比を作り出していたのが面白いと感じた。そして暗転が少ないことにより、物語がスムーズに進み、3人の落ち着いた間や激しいかけあいによって、とてもバランスのよい作品になっていた。3人の女性の性格も悩みもすべて違い、しっかりとしたキャラクター設定がつくりこまれているのだと伝わった。あかねとえいこのライバルだという主張の張り合いでも距離が近かったり、言い方にも気を付けながら張り合う姿も作り込まれていてテンポがよく、とても見やすい劇だった。

しかし、現代の夜の中ではネットでのトラブルが多い。孤独を感じ、第三者の人に悩みを打ち明けて情報をバラシてしまいトラブルに合う。この作品ではネットを良い使い方として使っていたが、現代では悪い使い方をしてしまうのだろうと、この作品を見て改めて感じた。この作品では彼女らは携帯電話を使っていたので現代より少し前の話なのだが、現代として描かれていたら彼女は前に進むことができていたのかとシュウヘイのような良い人はいたんだろうかと考えさせられ、ネットの使い方にももう少し気をつけていきたいとも感じる自分がいた。

金沢辰巳丘高校のみなさん、お疲れ様でした。


10 金沢桜丘高校『Twilight of summer ~ 夢の終わりはいつも~』

この劇のテーマは自分と向き合うことだと感じた。前半は小芝居が多く、リズミカルでテンポが良く会話劇が自然でどんどん劇の世界に引き込まれた。後半では3人の登場人物(恭子・茜・栄一郎)が、現実から目をそらして今の苦しい状況から逃げだそうとしている姿が描かれる。汽車に乗って逃げようとしている3人を全力で引き留めている姿が強くてかっこいいと感じた。だがギリギリまで3人は汽車に乗ろうとしていた。だから終盤、止められなかったことを後悔して1人で泣いている美華を見て「行っちゃったじゃん!戻って来てよ!」と思った時に3人はバツが悪そうに戻ってきたので心がスッとした。この劇の印象は身近なことが多くあげられていて感情移入しやすく、親近感がわく劇だった。役者はそれぞれの役のことをよく分かっていると感じた。終始、観客の心をつかみ離さなかった役者の演技の賜物であった。

舞台装置、音響、照明にも工夫がされていた。まず舞台装置では平台を使って地面から一段アップさせることで駅らしさが出ていて良いと思った。看板のさびた感じも長年手入れされていない無人駅が表現されていて良いと感じた。笹に短冊が多く飾られていて、七夕の時期なのだと見て感じた。音響では劇がはじまって幕が上がるとき、キラキラチカチカとした星のような音楽がオルゴールで始まったことも笹と天の川を連想させる素敵な幕開けの仕方だと感じた。そしてセミの音がずっと続いていたことから、そこは田舎で全然人がいなくて周りには多くの木が生えていて暑い夏なんだと想像することができた。照明では看板のエリアだけに当たるように準備したり、窓の影がくるくると回っているのを見せて汽車が来たことを表しているのが細く丁寧に表現されていると思った。ホリゾントを上手に使っていた印象があった。最初のきれいな空を表す青色も素敵だった。

タイトルは「Twilight of summer」と書かれている。日本語に訳すと「夏の夕暮れ」である。そしてこの劇では七夕のことを表していると考えられる。サブタイトルは「夢の終わりはいつも」である。夢を汽車で表していたのなら「いつも」の次は「ない」がくるのではないかと感じた。夢の終わりは夢への始まりであると感じた。改めて新しいものへの挑戦や今まで自分の中でモヤモヤしていたものに区切りをつけるのは簡単なことではないけれど、一歩踏み出して自分と向き合う強さが大切だと思った。また、自分自身が弱くなる時を知っておくことも必要ではないかと感じた。限界がきたときに身近な人に頼ること、嫌な自分から逃げずに向き合うこと、それが未来の自分とつながるということが伝わってきた。逃げているときは、周りの人のことに対し、自分のことを良く思っていないのではないかと不安になる。それを防ぐためにも周りの人をもっと信頼して繋がっていくことが大切であると考えた。自分と向き合い、もし汽車がきても乗らない強い「芯」を持てる人間になりたいと思わせる劇であった。

金沢桜丘高校のみなさん、お疲れ様でした。


11 金沢二水高校『6番目の銃弾より、愛をこめて』

まず目に入ってくるものは、高く積まれた山台、まるで物語のプロローグのようにしゃべり出す3人。力強いBGM、例えるならばヒーロー漫画やギャング系のアクションゲーム。語り調のセリフが多いことから、どこかファンタジードラマの2.5次元舞台を観ている感覚になった。

警察の捜査対象となった秘密結社「Bullets」彼らは酷い犯罪グループでは無さそうだったが、警察はとある計画に気付き、捜査を進めていた。薄暗い地下街のアジトという空間を上手く創り出していた。途中、正体不明の少女レイを拾った時には疑問がわいた。なぜ警察から追われている極悪な犯罪グループが人助けをするだろうか?警察は何を追っているのか?少女は結局、何のデータを探していたのか?不思議とその答えを問われているように感じた。仲間や警察の裏切りが次々と暴かれるが、悪いのは誰だったのだろうか。これは、今の現代社会を映しているのではと考えた。国のため、誰かを助けるため、政府や警察が毎日当たり前に仕事をしている。政府への反発をする者もいるが、ただ白い目で見られるばかりである。だが彼ら「Bullets」はそうではなかった。沢山の邪魔が入る中、彼らは計画を投げ出すことが無かったのだ。今や反発すれば抑圧される時代。いや、ただ人のために動いているとは思えないような闇を抱えている政府や何かを隠してばかりいる警察といった方が正しいかもしれない。地下街なんかよりもっと暗い場所が日本にはいくつもある。果たしてこれに対抗できる力を私たちは持っているのだろうか。政府の裏を知った時、彼らと同じように行動することが出来るのだろうか。その答えを出すのが今だと思える。人にはそれぞれの価値観で正義があり、それについて考えなければならないのだ。彼らか悪いのか政府が悪いのか。自分がどう考えてその意思にたどり着き、どう行動するかが重要なのである。薄暗い地下街にそびえ立つあの山台が、彼らの意思や行動力の象徴だったのかもしれない。

ラストシーンでようやく地上に出るまでホリゾントを一切使っていなかった。だからこそ地上に出た印象が強く残っていた。裏切りによる対立も舞台を分けて照らし、工夫が感じられた。キャラクター設定がしっかりしていることで、軽妙な掛け合いがとても面白かった。

この作品のテーマは、やはり「意思や行動力の反映」であると考える。そう思うと彼らも警察も全員、生き様がすごくカッコ良かった。これは人間の在るべき姿であり、見習わなくてはならないことだ。この文章の冒頭でも触れたのだが、私はこの作品をまさしくゲームだと思っている。別にはじめから彼らや警察についていかなくても良かったのだ。それでも私たちは知りたかったのだ。この街がどんな街で、彼らが一体何者だったのか。私たちにはいくつもの選択肢があり、一つ一つをクリアするには決断力、そして行動力が必要になってくる。彼らもそうだ。舞台は終わっても、まだまだ物語は続いていくのだろう。それが大切なことであり、私たちの生き方なのだと思う。それを教えてくれたのが「Bullets」なのだろう。

ところで、タイトルにもある「6番目」とは何を指しているのだろうか?キャストは6人、ラストシーンで銃を持っていなかったレイなのか?私は6番目にならなくてはならないのが私たちなのではないかと考える。舞台の始めに銃を撃ってストーリーが始まっていたのに対して、ラストでは銃声が聞こえずに幕を閉じていた。銃を撃つということは、今の現状に終止符を打ち、新しい世界を始めるということなのではないだろうか。6番目に銃を撃ち、物語を新たに再スタートさせなければならないのは私たちである。

金沢二水高校のみなさん、お疲れ様でした。


12 金沢商業高校『アオバ商店街の奇跡』

この物語のテーマは、身近な人を大切に思うこと、意思の受け継ぎであり、アオバ商店街で主人公が成長することではないかと感じた。最初から最後まで通して、アットホームで暖かい気持ちになれた。もし自分が入っていけるならば、この世界に入りたいと思うほど、人と人とのほんわりしたつながりを感じ取ることができた。演者一人一人が生き生きとしていて、商店街の人々の表情が気力にあふれていてあふれていて素敵だった。とても表現力の高い演技であった。舞台外からの声で、舞台の外にも世界があることをすごく感じた。道具や人がなくても、あたかもそこにあるかのように演じていたため、違和感なく入ることができた。しかし、物語の要となるおじいちゃんの演技にはもう少し研究ができると感じた。老人の演技というのは、男女問わず難しいものなので、日常的に老人の動きを観察などして練習する必要があると感じた。それに、おじいちゃんの演技にはとても好感が持てたので、もっと良くなると思われる。それぞれの人物のキャラクターが立っていて、どのキャラクターにも好感がもてた。演者だけでなく、舞台演出にも舞台を明るく暖かにする工夫がされていた。まず、舞台装置を照明が明るい時に移動させることで、暗転が少なく、明転が上手に作られていた。次に、落とし穴に落ちた平太の表現で、花道を落とし穴の中に見立て、縦のものを横で表現するのを斬新だと感じた。そして中割幕の使い道にも目を見張るものがある。中割幕、ホリゾントが順に上がることによって、隠されたものが徐々に明らかになっていく様子が分かりやすいと感じた。物語の最後に、おじいちゃんの服にスポットが当たることで、おじいちゃんはここで見守っているんだと感じた。ただ、駄菓子屋のセットはもう少し凝ってもいいのではないかとも感じた。それと共に、商店街のセットももう少しリアルにしては良いのではないかとの意見もあったが、あまり大仰なセットにすると、とてもいいテンポになる要因の一つである場面転換のスムーズさが損なわれてしまうため、難しいところなのだろうか。物語の最後に何かBGMを入れてもいいと思ったが、静けさがいい味を出していた部分もあるという意見もあった。

この作品は、非常によいテンポで進められていて、飽きずに見られる作品だった。このテンポの速さが、主人公クララの決断力を試していたんじゃないかという解釈もできた。その中でも、足を引きずりながらも歩くおじいちゃんに対し、歩けるのに車いすのクララの対比が面白かった。この対比がもっと活用されても良いのではないかと感じた。しかし、移り変わる世の中でおじいちゃんの意思をクララが受け継いでいることがしっかり分かった。テーマだと思われる意思の受け継ぎについて、そのおじいちゃんの意思、子供を笑顔にするという駄菓子屋の役割と小児科には通ずるものが見られる。とても完成度が高く、今に大切な事を強く訴えかけられ、考えさせられる作品だった。

金沢商業高校のみなさん、お疲れ様でした。


13 小松高校 『*そら』

この劇は最初から独特で不思議な印象が強かった。一見よくわからない。しかし、その詩的な会話表現、また舞台美術の中から、この世界は現実の世界ではないことが感じ取れた。私達はこの世界は、主人公あおいの精神世界であり、この劇に出てきた登場人物は、全てあおいの中で作られたものだと考えた。あおいの影である少年、オテンキオネエサン、兄妹など様々な登場人物が出てきたが、これらの人物は脚本にすら詳しい説明が載っていない。しかし、この人物達は全員、独特の不思議な雰囲気を持っていた。

演者達はこの、現実に存在しないからこその、不安定さや不思議な空気感を上手く演じられていたと思う。作中にはいくつも、普段使わないような言い回しがあったり、感情的にな訳でも、感情が入っていない訳でもない、という微妙なニュアンスの台詞があったりして、これを違和感無く、この物語の世界観に上手く混じり合うように演じ切ることはとても難しい。それを成し遂げた演者達は、この脚本への理解度が相当高いのだろう。この脚本を何度も読み込み、自分達なりの解釈を持ちながら練習を重ねてきたことが、演技にも表れていたように思う。

主人公のあおいは、傷付け合うことを恐れてダンボール箱(これは心の殻の暗喩だと考える)に閉じこもってしまっていたが、物語の終盤、囲まれて銃を向けられた状況で、戦いたくないから空を飛ぶ、と決意した。そのあおいの勇気に対して、オテンキオネエサンはあなたはあなたのままでいい。傷つけなくても、認め合えばいい、と言う。ここから、この劇のテーマは「人を受け入れること、認め合うこと」や、「現実から逃げてはいけない」それから、人は1人では飛べないという部分から、「支え合って生きる」ということだと考えた。

また今回、特に注目したいのは舞台美術だ。まず、幕が上がった瞬間に、美しいホリゾントとスモーク、そこに浮かぶダンボール箱とフェンスという、非日常的で幻想的な空間に惹き込まれる。それから、あおいの心象風景として空が使われていたが、ホリゾントで青空やそこにゆっくり流れる雲の様子を表現していたのが、とても綺麗で素晴らしかった。背景のホリゾントは様々に変化したがそのどれもが美しい色で、最初に創り上げた幻想的な世界観を一切壊すことなく、あおいの心情を映し出していた、その技術力の高さには感服した。また、風の音や雨の音、途中のBGMまで、柔らかく綺麗な音で、決して耳障りなものがなく、よりその空間の非現実性というものを増している感じがして、素晴らしいと思った。

この作品は、軽快な掛け合いで笑いが取れるわけでもなく、シリアスに持ち込んで涙を誘える訳でもない。しかし、それでも観客を惹き付けて離さない面白さがあった。それは演技も舞台美術も全てが一体となってこの作品の世界観を最初から最後まで貫き通すことができたからだと思う。

わかりやすいことが一概に良い事であるとは言えない。一見分からなくても、考えれば考えるほど新しい発見があり、それらが全て繋がっていく。この劇の魅力はそういう所だと思った。

小松高校の皆さんお疲れ様でした。


14 金沢錦丘高校『絶対的ライン』

私がこの劇から感じたことは友情や、友人とのつながりの不安定さである。

初めは暗い雰囲気の中での夕子のセリフ。結局それは夕子がかいた演劇の脚本だったわけだが、その脚本には何か夕子の悩みなどが隠れているように感じた。

物語前半は、コミカルな女子高生、夕子、雪、京香、千歳の日常が面白おかしく描かれており、シリアスなどとは無縁の喜劇に見えた。だが、それは京香の突然の事故によって終わる。京香を心配して集まった夕子、雪、千歳の思いが対立しはじめるのである。ほんの数分前の日常からの急展開。私はまずこのシーンで変わっていく彼女たちの思いを聞き、友情とはとてもデリケートなものだと感じた。不安定で不明瞭で不正確なものを信じたくても信じることができない3人、だからこそハッピーエンドの物語をかくことができない夕子、高校生という完成しているようでまだまだ未熟な年代だからこそ抱える問題、私にも共感できる部分があり、見ていてとても辛く感じた。このまま彼女たちが離れ離れになってしまうのではないか、そんな思いが私の頭をよぎったが、彼女たちは違った。夕子、雪、千歳はお互いのこと、そして京香のことがやはり大好きだった。不安定でも友情は彼女たちをちゃんと繋いでいたのだと感じた。こうして仲直りした3人は、理由や理屈や意味や意義なんて関係ない、京香を助けたいと思い病院へ向かおうとするところで物語は閉幕する。そんな希望あふれるエンディングは見た人全員を安心、友人の大切さを伝えられる終わり方だったと思う。

この劇で印象的だったことは、見る人を爆笑の渦に包み込む極端ともいえるコメディ要素、見ている人も苦しくなるような極端ともいえるシリアス要素が一本の台本に存在しているということだ。一見ミスマッチ感を覚える構成だが、この二つを使いこなし、シリアスシーンで変わる3人をより強調しようとする思いが伝わってきた。また、タイトルの「絶対的ライン」とは、家族のように血が繋がっている訳でもなく、恋人のように愛しあっている訳でもない、そんな友人という不安定なつながりの境界線であり、家族や恋人といった具体的な例を劇中に出すことで友人という繋がりの立ち位置をはっきりさせていると感じた。そして、コメディアンでは見る人を確実に笑わせる表現力があると思う。最後に舞台装置では、ホリゾントのあて方や変化、音響の使い方で、目まぐるしく変わる彼女たちの思いを強調しているように感じた。

金沢錦丘高校のみなさん、お疲れ様でした。


15 県立工業高校『color』

この作品のテーマとしては「自分の力を信じる」だと考えた。レンジャーやクルーを通して周囲が助けもあったまもしれないが、蒼くん自身が自分を信じることができたことが色を見ることにつながったのだと感じた。

印象としては色覚異常という重いテーマをレンジャーや怪人でポップにしていたことが楽しいイメージが与えられていた。そして舞台全体を通して蒼くんの目の中にいるようだった。最初はホリゾントがついておらず、夕焼けの赤などが見えたときにはホリゾントの色が赤に変化していたので蒼くんの見えるようになった色が伝わった。セットがシンプルだったことで「色」という題材の着目点が広がっていった。

劇中の最初に蒼くんの心情を周囲が口々に話している場面はマイナスの言葉をずっと言っていて、見えない辛さがあふれていた。しかし、後半にまた同じように心情を言う場面ではプラスの言葉に変化していて色が見えるようになっていくにつれて蒼くんの心も明るく変化していった。それは脚本の工夫として、とても面白かった。舞台セットとしては中心に一つだけある目を想像させるもので、最後は色とりどりの布が舞っているようで蒼くんに色の世界が広がったように思えた。

最初『color』とは誰しもが「色」のことだと考えただろう。だが、この作品はその「色」の中にも見えない、見えたいという様々な思いが含まれているように感じた。周りが見えている世界を自分は見えておらず、鮮やかさがないというのはとても苦しく、容易に想像できることではなかった。だが、この作品は見ている人に舞台全体の使い方を通して色のない世界を語りかけているように思えたのではないだろうか。子どもの無邪気さが蒼くんの心を傷つけていたのは自分たちの心の中にいる障害等を持つ人への何かしらの感情のように思えた。それを隠すのではなく、最初にはっきりと見せることによって自分の中にある気持ちを正されるように考えたのではないだろうか。父親という存在はつねにマイナス面を話していてそれは蒼くんの自分に対する不安感を現わしているように思えた。だが、後半で父親が出てこなくなり、どんどん色が見えるようになっていくことで蒼くんの心の中が明るくなっていって、それは自分の心が強く変化しているように思えた。

目まぐるしくセリフが廻り、難しい言葉もあったが、それが気にならないほど引き込まれた劇だった。見ている人は作品に出てくる、どの役にも当てはまるのではないだろうか。蒼くんのように悩んだり、レンジャーのように励ましたり、子供のように悪意なくも人を傷つけたり、色覚異常という題材でもなにか身近に感じたのは自分の中にある「人」がはっきりと映し出されているからだ。演技もとても激しく丁寧で生き生きとしていた。ずっと、見守っていきたいと感じた。

県立工業高校のみなさん、お疲れ様でした。


16 羽咋高校『Letters』

この「Letters」という作品、題材はもちろん「手紙」である。しかしただの手紙ではない。物語は、国語の教師から出された「ラブレターの作成」という宿題を本田・鈴木という女子2人がしているところから始まる。宿題に「ラブレターの作成」を出す先生などそうそういない、普通であれば話は一気にインチキくさくなる。だが、この物語では違和感なくストーリーがつながっていた。また「ラブレター」という主旨の手紙が、普段伝えられないことを伝えるためのものであると再確認できた。さらに劇中では、幼馴染に片思いする本田のために「好き」という言葉を使わない「究極のラブレター」を作るシーンがあるが、手紙では直接言わなくても言葉によっては、その真意が透けて見える事がある。全体として良い雰囲気でありながらも、切なく、かつ「手紙の良さ」をしみじみと感じられた。それとは別に物語が進むにつれ、鈴木もまた本田と同じ人が好きだということが判明するが、それでも彼女は本田を応援していた。この時の複雑な心境は良く表れているという意見があった。

テーマは3人(本田・鈴木と彼女らの後輩である小林)によって、それぞれ違うのではないかという意見が多かった。まず本田は、鈴木、小林の助力のもと完成したラブレターをなかなか渡せずにいた。彼女のテーマは「思いを伝える勇気」であろう。次に鈴木、彼女は自分の想いを隠しながら、本田の恋を応援するのだがラストに国語教師にまたもや出された「一年後の自分」の手紙に自分の想いを伝えるために書く、そこから分かる彼女のテーマは「相手を思いやる気持ち」や「後悔しない生き方」だ。最後に小林。彼女は本田の想いも鈴木の想いも知っている立場にある。よって、「複雑な状況の時の自分の在り方」である。また、3人共通しているテーマとしては、「感謝」「別れ」との意見があった。どちらも、高3の初冬、本田と鈴木に訪れる「卒業」が軸となっている。この劇では、舞台が演劇部であり、なおかつ手紙を書くシーンが多いため、動きが少ない。だが、その分、言葉が観客を引きつける。本田の武勇伝(クリスマスで、リア充カップルのツリーを鋸で切る。バレンタインデーにリア充カップルのチョコレートを全部割る)や、小林がふざけて書いた「呪いのラブレター」(切れる・壊れる・離れる・去る・死ぬなどの縁起が悪い言葉が入っている手紙)などの面白いエピソードで、観客を飽きさせないのだ。役者もハマり役である。空間も上手に使われていた。ただ、この劇を見ていくなかで、いくつかの疑問が浮かんだ。劇中、彼女たちの座っている机の中央にペン立てがあり、そのペン立てにスポットライトが当たるシーンがあるが、あのペン立てにはどのような意味があるのか、またラストの鈴木の「一年後の自分へ」の手紙を読むシーンで、「旅立ちの日に」が流れたが、曲の意味何なのかという意見も出たが、これについては物語の時期が卒業に近く、なおかつその手紙が卒業当日に配られるからと推測される。何にせよ、今は短い言葉のやり取りが多い中、手紙の良さを痛感させられた。

羽咋高校のみなさん、お疲れ様でした。


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