第71回石川県高等学校演劇合同発表会

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生徒講評


1 金沢桜丘高校 あたらしいじんけんのはなし

「人間とは。」なんと興味深く、難しい問いであろうか。この問いが『あたらしいじんけんのはなし』というタイトルから、そして上演校の演劇から観た人に投げかけられた。そのように感じられる劇であった。脚本自体の持つテーマ性は勿論であるが、それぞれの登場人物を一貫した人格で演じられているということが劇の分かりやすさ、引き込みやすさを生んでいた。

今回上演していたこの作品は、2050年頃、人工生命体が人間そっくりに在ることが可能になり、同等の思考、感性を抱くようになった時代の話であった。事故によって脳以外を全て機械で補った主人公レナと退院祝いとして兄からレナにプレゼントされたアンドロイドのAN-00483。この2つの存在の違いと接し方、扱い方の違い。これがこの作品で最も注目が集まったところであろう。実際にこのようなテーマは現代によっても哲学的ゾンビ、シンギュラリティー、宗教など多面的に捉えられ、考え、議論されている。そのような現代でそのタイトルについてしっかりと表現し、発信しているという面で何とも学問的であり、人間的であったと思う。よって、多くの人間にとっての人間について考える機会となったと感じた。

演出等については、舞台をまず中割幕で前後に分け、更に前部を家と研究所の2か所に上手側、下手側で表していた。場面転換にかかる時間を短縮するという工夫が感じられた。だが、上手側にアクティングエリアがかたよっていて舞台全体を上手く使いきれていないという指摘もあった。また、舞台の後部は作品の後半で使われており、観る人が遠くなることなどを考慮してか平台が組まれており、客席から見やすい舞台構成となっていた。さらに舞台セットの机などの上はカレンダーで時の移り変わりを表せていたり、食事の細かい小道具まで準備されており、細部までのこだわりを感じた。だが、そのようなこだわりの一方で2050年頃という時代設定をセットで表現しきれておらず、近未来であるという設定をひろいきれていなかった。

照明の工夫については観劇した人ならば誰もがすぐに星球であると答えるであろう。それほどまでに最後のシーンでバックに映し出された美しい星々は印象に残り、人々の感性を動かすものであった。また、上手側、下手側の片側を照らすときにサイドからのライトが用いられていたが、反対側でセットを動かす黒子の顔や姿が時折はっきりと映っていた点が気になった。

しかしながら劇全体をみて、または作品全体を通して観た人を考えさせる強いメッセージ性とそれを伝えるための工夫が演技、演出、衣装などほとんどすべてに施されており、考え抜かれて人間によって創り上げられた人間のためのとても面白い劇であった。アンドロイトがプログラムされた思考で他者に奉仕するために行動する。その他者にアンドロイドのAN-00483だけでなく人間のアンとして認知され、定義されている。夢想し、思考し、懐疑する。そして、人間として扱う態度から奉仕の対象者のために自身の定義を他者に合わせようとする。さらに自己の定義の更新によってアンドロイドは人間になった。実際の未来はどうだろうか。

金沢桜丘高校のみなさん、お疲れ様でした。

2 金沢龍谷高校 あたわり

「緊急地震速報です、強いゆれに注意してください」短調なメロディーと共に鳴り続け、地震のゆれの音が聞こえる。そこから幕が上がり始め、目に映るのは多くの物が乱雑に散らかっている部屋。せっせと片付けをする女の子とボランティアの2人、そこに大きな荷物を持ってやってくる女の子。そこから劇が始まる。

この話のタイトルである「あたわり」とはどういう意味なのか。それを主人公の瑞稀、姉の沙智、母、ボランティアの2人が劇中で伝えるのである。瑞稀は始まりから、とてもわがままなことを言ったり、姉や母にいやみったらしい言葉を言い、姉の沙智はそれにあきれ注意している。瑞稀のの発言や行動にイライラしてしまったり、沙智の発言や行動に共感してしまうことが多くなり第三者からの視点でも、役に感情移入できて楽しむことができた。全体的に劇中の役者たちの話し方や行動は少しリアルに見えて、演劇らしくないシーンも多かった。しかしそれはその演目に合っている演技の仕方でとても良いと思った。瑞稀は始終、感情的な話し方になっていたが、母の語りのシーンでは淡々と話しているとは逆に、沙智は最初は瑞稀のだらだらした姿にあきれながら話してあまり感情的になっていなかったが、瑞稀とのけんかのシーンで思っていることや悩んでいることが爆発してガッと言ってしまうことによって2人の話し方が対照的になるシーンがあった。ここから2人の話し方が変わることで本当の2人の姿が分かるようになった。その2人を取り巻く母とボランティアにも工夫があった。母はけんかをした後の瑞稀に対し部屋を散らかしたことにも怒らず淡々と話している。ここから娘2人がけんかをしていることを察しての話しをする姿が上手だった。ボランティアの2人も敬語を丁寧に使っていて真面目に感じ取ることができた。「あたわり」とは、運命、与えられたもの。この劇では地震があってからこそ、明日があるわけではない、という意味である。これを一番伝えていたのは母である。瑞稀に、沙智の人生、母自身が昔何になりたかったのかを伝えながら、今、みんなに出会うことができた、これが「あたわり」ということを役者だけでなく第三者に伝えている。

舞台装置については、平台の上に服、おもちゃ、紙などが散らばっている舞台になっていた。よく見てみると、本棚の中にある本がきちんと収納されていたり、タンスがそのままだったりしていた。これは地震がおさまった直後ということではなく、時間が経過し部屋が少し片付いてきているということを表している。小道具にはこだわりがあった。さらにその小道具を、ボランティアの人が持ち上げて移動させたり、母が通帳を探す時に服を散らかしたり、沙智が他の役者がセリフを言っている時にずっと服をたたみ続けているシーンがあることによって、小道具を引き立てながら、日常感を少しずつ出していくことで劇に入り込みやすくなっていた。特にそう感じたシーンは瑞稀と沙智のけんかのシーンである。このシーンは2人が周りにあるクッションや服を互いに投げることによって小道具の印象を強めていた。このように多くの小道具を印象付けるために工夫している点があった。照明については、この劇の照明は劇の途中に暗転がなかった。その分照明の変化はあまり見られなかったが、2人のけんかのシーンでホリゾントの色が変化し、2人のギスギスした雰囲気を出したり、最後の手紙を書いて終わるシーンではだんだんと暗くなっていったりと大事なシーンでは照明の変化があったので見ていても、シーンが変わったことをすぐに理解することができた。音響については、始まりが地震の警報で始まることで劇に入ることができた。そして最後は手紙を書いているシーンで曲が流れて暗転して終わっていくことで最後の最後まで劇に入ることができ、色んな視点で楽しめた。

金沢龍谷高校のみなさん、お疲れ様でした。

3 七尾東雲高校 Bulling

「いじめ」というシンプルだが深刻なテーマに対して女子高生の悩みやすさや関係の複雑さ、他者への気持ちの伝え方がリアルであった。変わっていくみくからあかりへの態度によりクラスの他の友達もうまく言えずあかりを助けることもみくをとめることも出来ない。また劇のラストに役から役者へと戻り、いじめの定義やいじめは劇中のことではなく現実世界でも起こってしまうことだというメッセージを伝えることで舞台上のものとして終わらせない工夫でテーマがより伝わりやすかった。ただ、脚本の中で重要だったはずの蛍の見せ場が少なく、台本改変で蛍を亡くなった過去の人にした理由が分からなかった。先生は蛍もいじめで死なせてしまった過去があるのに関わらず、あかりがいじめられていると聞いた後にアクションを起こさなかったところに疑問が残った。全体的にテーマが理解しやすく短時間にまとめられていたため劇に入りやすかったが、少々脚本の展開が急でッ無理やり感があったように感じた。

演技に関しては、活舌も表現も良く、さすがに東雲高校だと感心した。個人の声や特徴も役に合っていた。しかし、お互いに向き合って話すときに会話が聞き取りにくく感じた。台本の読み込みが深く日常よりリアルに表現できていた面はよかった。

照明に関しては、舞台上に教室を表す四角いエリアが浮かび上がり、他とは違う演出が印象的だった。前明かりをつけていないのと前髪のせいもあり、役者の表情が読み取りにくかった。花道を学校の廊下として使うのも観客の視線を変化させる工夫があった。ただ花道の照明が暗く表情や細かな動きが分かりにくい部分もあった。

舞台照明については、「教室」を舞台上に作り、カバンなどは日常的でリアルな小道具使用などの工夫がみられた。学校の机や教卓の配置にも、客席から見て役者が重なって見えないということもなく、よく考えられていた。ただ、舞台となった教室にいる生徒には役者である4人だけなのか、それとも他にも生徒がいるという設定なのかがはっきりしない部分もあった。

衣装については、実際の七尾東雲高校の制服ではなく、どこにでもあるような架空の制服を着ることで、テーマである「いじめ」は舞台上や特定の学校だけでなく、どこででも起きてしまう可能性がるというメッセージだと考えた。

好きな人の話から始まり、友達どうしからクラスの友達をまきこんだ「いじめ」になり、蛍にきっかけをもらいながらも自分たちで解決するという日常的だがメッセージの強い台本をもとに、「いじめ」の残酷さをいじめられている側、いじめている側、いじめを知った周りの人たちという様々な視点から表現できていた。

七尾東雲高校のみなさん、お疲れさまでした。

4 野々市明倫高校 フラン

幕が上がると、美しい星空が広がっていた。そこには星を眺めながら楽しそうに話しているフランと理恵と母がいる。フランは話し方や立ち居振る舞いなどから純粋な子という印象をもった。周りには白い衣装を着た人(コロス)が6人、キラキラ星変奏曲とともに舞う。なんとも美しく幻想的な光景である。しかし、友人を突き落としたフランを母と理恵はゴミ箱の中に閉じ込めて蓋をするところから作品が始まる。フランの存在を隠しきれない二人の悲痛な叫びが繰り広げられていく。コロスに責め立てられるシーンが強烈で気持ち悪さすら感じた。

理恵、美香、啓介の高校生パートのみ現実的であり、その他は芸術的で詩を読んでいるようだった。コロスが軽快に動いたり復唱したりと掛け合うテンポが良く、じわじわと惹き込まれていった。

この作品のテーマは「人間の汚さ」「自己愛」だと考えた。母が人を殺した子を隠す(都合の悪いことから目を背ける)こと、フランと向き合おうとしない(純粋なものから目を背ける)こと、自分を守るために人を利用したり噓をつくこと。人間誰もが持ち合わせている汚い部分を突きつけられたようでハッとさせられこわくなった。

コロスが「ぽとぽと」「ぼとぼと」と唱えていたが、これは醜く汚い心が溜まって溢れていく音であるという解釈をした。また「流れ星は宇宙のゴミ」というのは美しいと感じるものは見せかけが美しいのであって、本当は汚いものだと言っているのだと思う。美しいだけのものは存在しないのだろう。作中、フランは唯一汚れていなくて純粋で美しい存在に見えた。しかし、黒色のワンピースを着ており、黒くて汚い部分も持ち合わせていることの表れだったのではないか。

理恵は啓介に妹(フラン)を紹介するために母に反対されながらも、蓋を開ける。ついに、自分とそしてフランと向き合おうとするように見えた。だが、弱くてずるくてキレイなふりをしたがるのが自分であるということを突きつけられ、耐えられずまた蓋を閉めてしまうのである。ここで蓋を閉めるという行為は嘘をつくことであるのだと考えた。ありのままの姿を見つめることはそう簡単にはできないことであり、すぐに自分を守ってしまうという人間の弱さを感じた。変わろうとしても変わらない、変われないのが人間なのだなと思う。

冒頭で美しく感じた舞台もいつの間にか不気味に見えてきた。汚いものをキレイな場所で表現していたのが気持ち悪さを感じたひとつの理由であろう。

最後にキラキラ星変奏曲が再び流れた。冒頭と全く同じ曲である。最初、キレイに聴こえてきたはずの曲は、とても気味が悪く聴こえてきた。

役者、照明、音響、衣装に調和がとれており作り込んであることがよく分かった。役者は発声がよく出来ており、一つ一つの言葉がよく聞えるだけでなく心にすっと、時にはグサッと刺さってきた。

独特で不思議な世界観のため理解が困難だったという意見もあったがその分、観劇者がここはどういう意味なんだろう?と洞察力や想像力をかきたたせるものであった。講評委員会でも様々な解釈が出てきて、活発な話し合いをすることができた。

今回の劇は、「人間の汚さ」や分からないからこその魅力(抽象演劇の良さ)に気付かさせてくれた。

野々市明倫高校のみなさん、お疲れ様でした。

5 金沢伏見高校 君はかごの中で夢を見る。(短縮版)

幕が上がると先ず、色とりどりの服を着た5人の子どもの楽しそうに遊ぶ姿が目に入る。一見他愛もない活発な子どもたちの日常であり、舞台は簡素だが生き生きとした演技に、思わず子どもたちの輪の中に加わりたくなる。子どもたちにはそれぞれ個性を表した色鮮やかな衣装が割り振られている。白いワンピースを着たモエコは、明るい性格で色鮮やかな服を着ている他の4人と、どこか疎外感がある。モエコの寂しそうで遠慮がちな様子、そして気が弱く人に流されやすい気質は、白という色の純粋さ、どんな色にも染まるという特徴と重なって感じる。対して、そこに現れる「物の怪」、ヒカルは黒の衣装を身にまとっており、闇の存在である事を意識させる。

ヒカルはモエコの寂しさ、不安につけ込み、モエコを闇の世界へと誘う。照明が暖色系から青を基調とした暗い雰囲気へと移ったことで、人間世界から闇の世界への区別が明瞭になり、より闇の怖さが際立った。8年の眠りの後、4人に忘れられているという事実をヒカルから告げられたモエコは、ヒカルの唆しもあって、歪んだ性格に豹変してしまう。モエコの声色に迫力が生まれ、冷酷さがよく表現されていた。「トモダチなんでしょ。なら体頂戴。」あなたがもし彼女らの一人であったら、何を採るだろうか。自分の身を投げ出してでも、トモダチを救っただろうか。「トモダチ」とは一体何か、そうあるべきか、様々に考えさせられた。

当然、4人はモエコを忘れたくて忘れたわけではない。モエコが突如として失踪した悲しみから立ち直るために、自然と辛い事実から逃避した「人間の弱さ」の結果だった。「人の心の弱さ」とは、この劇全体のテーマであったと思う。モエコは改心する際、「忘れる」という言葉に強く反応した。以前のおどおどした自分から「強くなった」モエコだったが、その「強さ」の裏には常に「人の心の弱さ」が見え隠れする。「ずっとみんなを手に入れたかった。あたしだけを見てもらいたかったの。」内に秘めた「孤独」や忘れられたくない思いといった「人の心の弱さ」の反動が、モエコをこのような態度に駆り立てたのかもしれない。だから「忘れる」という言葉だけでモエコの「強さ」は脆くも崩れたように思う。

では、これらの弱さにどうやって立ち向かえば良いのか。この劇における一つの答えが「友達」だと考えた。モエコの「孤独」とは、単なる距離的な隔たりではない。忘れることを通した気持ちの隔たりなのだと思う。4人が「友達」として結束し、互いを信じ、それぞれ見て見ぬふりをしてきた記憶を受け止めながら、その隔たりを埋めていくことで「離れていても気持ちは繋がっている」という、「友情」に気付くことができた。そして、孤独の上にあるモエコの脆い「強さ」ではなく、この真の「友情」が、彼女らの支えとなる「人間の弱さ以上の強さ」なのではないかと思う。その意味でヒカルという存在は皮肉にも友情を壊そうとしたにもかかわらず、逆にそれがより強い「友情」を4人にもたらしたのである。

結局、モエコは闇の世界の住人として永遠に生きていくことを決めた。しかし最初と違い、彼女たちの間には強い「友情」がある。その象徴として、くまのぬいぐるみだけを残した舞台には余韻が残り、感動的なラストとなった。

最後に、タイトルの意味について考えたい。「君」とはモエコ、ヒカルのいずれかを指している。「かごの中」は途中のセリフにもあったインコの鳥籠と闇の世界を連想したものであるとか、「かごめかごめ」にある「かご」であり、「夜明けの晩に会う」ということも暗に含んでいるという意見が出た。又、「夢を見る」については人間世界や友達を思うという風に解釈された。

金沢伏見高校のみなさん、お疲れ様でした。

6 金沢辰巳丘高校 あたわり

三間ほど開いた幕の間から私たちの目に飛び込んできたのは、とある姉妹の祖母の家だ。壁からは木の香りが漂い、畳からはイ草の香りがするような 田舎の民家の風景である。部屋の片づけをする姉妹を手伝っているのは、高校生ボランティアの二人組だ。一人は日本人、もう一人は中国人のコンビである。そして舞台から溢れ出る温かさ、優しさ、親しみやすさが私たちを包み込んだ。だが、始まってすぐにそこにアクセントが加えられる。姉妹の仲があまりよくないようなのである。田舎のアットホームな癒しを求めていた人は、さぞ驚いたであろう。面倒くさがり屋で意地っ張りなまさに反抗期という感じのキャラクターの妹が曲者である。そして冷たい対応を見せる姉である。だがそれが私たちにキャラクターの個性を固定させ、この物語に引き込む巧妙な罠であることを気づかせないままトントンと話は進んでゆく。

話が中盤に差し掛かると、この物語の重要なテーマの一つであろう「大人の現実感と子どもの夢」が見えてくる。これを描くのは無論二人の主人公、姉と妹である。姉は社会人である。彼女は現実を見ており、仕事の大変さを知っている。そして、夢を叶えることがどれだけ難しいかも知っている。妹は子供である。彼女は理想を見ており、理想と離れた現実的な彼女にとってはつまらない人生を贈る姉を見下すとともに、その現状を変えようとしない姉に疑問を持っている。そして、夢は追いかければ、きっと叶うものだと信じている。この二つの全く異なる考え方が幅広い年代層の観ている人の共感を呼び終盤へと誘っていく。

終盤、的確に今を表すピンスポットに照らされた姉と妹は、互いを認め、一緒に手紙を書くのだが、中盤の冷えた関係の演出がこの部分を絶妙に引き立てることによって、手紙を書き始めるころにははっきりと家族の大切さ、温かさを感じることができた。

舞台、演出、ラスト。全てにおいて心温まる劇をありがとう。

金沢辰巳丘高校のみなさん、お疲れ様でした。

7 金沢錦丘高校 だけど、わたしは

緞帳が上がる舞台がスタートしたとき、最初に表れたのはスポットに照らされるさえの姿だ。セリフを読んでいるようだが、どこか孤独に苦しんでいるようにも感じた。「LGBT」。この作品のテーマであると考えられる。彼女もまた、その一人である。この作品では、3人の登場人物が出てきて、それぞれ別々の恋愛観を持っている。あき先輩は、いわゆる一般的な恋といわれる異性が恋愛対象であり、さえはレズビアンといわれる女性が恋愛対象である。そしてまりは、アクシュアルといわれる他者に対して性的欲求や恋愛感情を抱くことができない存在である。

同性愛は世の中でも認められつつあるが、それでもまだ偏見はある。さえがまりのことが好きだと分かった時、あき先輩はさえに対してあまり好意的な言動をとらなくなった。これは同性愛が「気持ち悪い」と感じる世間の目を代弁しているようだ。しかし、そんな言動に負けず、好きなまりに告白し、付き合うことになる最後に先が気になってしまった。その先は観客一人一人がそれぞれ別々の後日談を考えることができるラストだった。

BGMと舞台がマッチし映画を見ているような感じで感情移入したため思わず感動して泣いてしまった。特にあいみょんの曲を取り入れることが効果的だった。 キャラクター分けも良く、それぞれ立場があり見やすかった。特にこの作品は3人の恋愛観がバラバラであり、その行動を客観視することができ、とても良かった。テンポがあり飽きさせなかった。

この作品がもっと良いものになるためのポイントを挙げるなら大きくまとめて三つある。

一つ目目はセリフについてだ。途中でさえとクマが対話するシーンで、クマのセリフの時は声を変えた方が良かったと感じた。また一人ひとりが話すシーンは自然で良かったが、対話の演技の時はセリフの域を超えていないため、演じているように感じた。

二つ目は照明についてだ。暗転は多いと感じたが、この作品では暗転が入ることで時間経過が感じられた。だが、暗転の時間が長く感じられたため、もっと短くした方が良かった。また最後の照明がきれいに消えたため、もっと具体的にした方が良いと感じた。

三つ目は、演出についてだ。舞台が広すぎてうまく使いこなせていないように感じた。もう少し狭くすれば良いのではないか。またこの作品のストーリーの良さを生かす演出があったのではないかと感じた。この作品は「LGBT」の考え方について改めて我々に考えさせられた。まりやさえ、そして多くの恋について受け容れてもらえない人たちが少しでも行き易い世の中になることを願う。

金沢錦丘高校のみなさん、お疲れ様でした。

8 金沢二水高校 おぼろ月夜の備忘録

いつも楽しい演劇部。色々な個性を持った部員たちとの、何気ない日常。素晴らしい劇をつくろうと日々ともに練習に励んでいる。大切な「仲間」たちとの大切な時間。そんな日々の中、もし自分がその「仲間」たちに忘れられてしまったら…。

主人公のおぼろは、ある不思議な夢をきっかけにして、部員の仲間たちから忘れられていく。一人、また一人と、おぼろのことを、おぼろとの思い出を忘れていく。「おぼろ月夜の備忘録」。この作品を通して、私は「仲間の大切さ」を感じた。

今回の劇では、「仲間たちとの楽しい毎日」が、リアルに、そして楽しく表現されていたと思う。ただセリフを言い合うだけでなく、台本に書かれていない、さも日常会話のようなアドリブに、なんとも言えない現実を感じた。ランニングに行くとき、そして帰って来たとき。その演技が、現実の仲間たちとのボケとツッコミのある楽しい会話を連想させた。だが、なんといっても良かったのは個々の役のキャラクターであった。台本にもしっかりと個性溢れる登場人物たちが描かれているが本当は優しい七虹など、それぞれの性格や感情がちゃんと伝わってきた。演出の面では、オープニングがかなり印象的だった。暗闇の中で、おぼろともう一人の会話が始まる。その後、中割幕が開き、奥には何人かのシルエットが、そして、そこに「?」が登場する。暗くて表情の見えにくさはあったものの、一瞬で物語に引き込まれた。また、時間経過の表現が良かったと思う。時計の針のSEにホリゾントの青、役者のシルエットがブルーの光の中に残るのがとてもきれいだった。しかし、時間経過の表現では分かりにくいところもあった。カラスの鳴き声のSE中に登場人物が会話をしていたシーン。「あっという間に時間が経過してしまったの?」という印象を受けたため、SEのとき、役者はフリーズし、ホリゾントを活用するという表現に統一すれば良かったのではと思う。また、場面転換をもっと工夫して欲しかった。セットの転換のために少し長いと感じる転換があり、それがテンポを悪くしていた。下手側のハンガーラックに掛けられた服や中央の机、上手側の棚のぬいぐるみなどの変化で場面の違いを表現していたものの、少し分かりにくいように思えた。ドアの開閉などのその場面のテンプレート的な所作や、舞台上のもう少し大きい変化があればもっと分かりやすかったのではないか。

この作品では「忘却」という行為を通して、「友情」や「仲間の大切さ」、「人間関係の難しさ」が表現されていた。最初の「翔子ちゃん」の会話や「?」のセリフなどから、「忘却」の恐ろしさや「忘れられたくない!」という思いを感じることができた。また、ラストシーンで、劇中に語られていた「友達と仲間の違い」についての答えが示されたことで、「仲間」という存在についての認識を再確認させられた。そして、この作品の象徴のような劇中劇のセリフが、とても良かった。風や星になりたいという何気ない二人のセリフが、最後に「仲間」についてたとえたセリフとして終着していたことに魅力を感じた。最後の比喩表現といい、題名といい、とてもきれいで工夫されているという印象を受けた。しかし、ストーリーにいくつかの疑問がある。なぜ、最後に紫音と太郎は登場しなかったのだろう。「?」はどのような存在なのだろう。作者の意図は分からないが、これらを曖昧な表現のまま終わらせることに意味を求めるとするならば、「大切な(関係が深い)仲間でない人のことは忘れてしまうものだ。人間は忘れる生き物。こういうところに人間関係の難しさがある」という風にも考えられる。この作品は色々なことを私たちに考えさせてくれる楽しくきれいな良い作品であった。

金沢二水高校のみなさん、お疲れ様でした。

9 北陸学院高校 見えない血しぶきを浴びながら

はじめ、この作品の結末を知ったとき、狂気的で怖いと感じた。ごく普通の女子高生、島本明里は書きたいものが何かを見失い、友人や部員全員を失ってしまった。自分のことすら分からなくなり、今までの自分や部員について「書かなきゃ。私は書く。私は書くんだ。」と言って幕が下りる。冒頭の明るい雰囲気とはうってかわって不気味に終わる。

この作品のテーマは、主に人間関係のもろさや、口では言えない悩みだと思う。明里の友人である青野シュリルの正体は、人気ネット小説家の天音アイだったが、裏切ったのではなく誰にも言えなかったのだと思う。友人にも言えないほどの多くの悩みを抱え、自分を偽って生きてきた彼女。明里とシェリルは似たようで対照的に描かれている。また、あかりのたった一つの行動で全てが崩れてしまう。それらがとても分かりやすく表現されていた。

「見えない血しぶきを浴びながら」というタイトルは、劇中でとても重要な役割を担っている大泊凛の俳句である。彼女は決意や覚悟と言っているが、これは「心を傷つけて、傷ついて生きる」という意味だと感じた。シェリルや部員の心を傷つけ、自分も傷ついた明里、そんな彼女の真っ白な垂れ幕に、最後赤い照明が当てられる。これは血しぶきの表現と見てとれ、とても効果的であった。また、役者の演技を際立たせるために、部屋を白い箱のみで表しているのも効果的だった。垂れ幕には、明里以外の部員それぞれの作品、思いが書かれていて、それがバラバラに下がっていることから、みんなの思いはそれぞれ違うということを表しているように思えて、工夫できていたと感じる。さらに、歩きながら復唱した後、一斉に紙を破るシーンがとても印象に残った。明里の孤独感がより伝わってよかった。登場人物に関して、それぞれのキャラクターが際立っており、普通に会話でも見ていて飽きなかった。動作も舞台を広く大きく使っていて、非常に良かった。また役者の演技力も高く、特に美晴、歌穂、シェリルの掛け合いのシーンはとても引き込まれた。シェリルが泣きながらセリフを言う場面が現実かと思えてきた。

この劇を通して、悩みは一人で抱えないことや人間関係の大切さに気付くことができた。また、人種差別、あるいは人の考えを否定したり、自分そのものを否定することもいけないと思った。

北陸学院高校のみなさん、お疲れ様でした。

10 金沢泉丘高校 あたしとけむしの物語

物語は、スポットライトの当てられた蝶子の語りから始まる。内容は、東京大学の入学式で上野千鶴子氏が述べた祝辞である。「女子は『かわいい』ことを期待され、求められてきたがゆえに、自らの学力を隠そうとする。」上野氏はそう語った。その祝辞を踏まえ、蝶子は自分らしく生きたいという強い意志を見せる。男勝りな蝶子の口から放たれたその決意は、我々観客に希望を感じさせた。

この劇のテーマは、女性差別であると考える。小さな頃から大人たちは「女の子らしく」という事にこだわり、それを押し付け、強要してきた。そんな世間の慣習、固定観念に逆らって自分らしく生きる蝶子。彼女を通して、女性にも生き方の自由があるのだと言うことを我々に訴え。劇中では、女の子なのに虫が好きな蝶子は世間から変人だと扱われていた。そんな蝶子の生き方を受け容れてくれていたおばあちゃんという存在。そんな蝶子の心の支えでもあった存在が、突如として亡くなってしまう。この事をきっかけに、自らのアイデンティティが崩れてしまう事を恐れ、おばあちゃんという過去に固執する蝶子の姿が良く描かれていた。最初のシーンの蝶子からは感じられない弱さが伝わってくる。今まで自分の生き方を貫いてきた蝶子が、おばあちゃんを失い、不安になっていく様子から、世間の女性への偏見、固定観念に苦しみ、自由を訴えるというテーマが強く感じられた。

この劇には、スポットライトが当てられた「語り」のシーンが多く含まれている。劇中とはうってかわって、上野氏やマララ氏のスピーチを用いて、はっきりと直接的に女性の自由について訴えるという2つの伝え方を効果的に使い、テーマを伝えようとしていた事が感じられた。また、「アリとキリギリス」を世間の評価にこだわらない視点で捉えることで、自由について強調されていた。最終的に蝶子は、今までおばあちゃんという存在に守られ、おばあちゃんの言葉を借りて確立した自己と向き合い、脚本を書くことを通じて自分自身のアオデンティティを見出す。このシーンからは蝶子の成長が感じられた。

役者たちの演技は、とても素直でナチュラルな演技をやりやすいように考えられていた舞台美術がとても美しかった。小学生のシーンと高校生のシーンの変化を帽子の着脱と話し方で表していたが、少し分かりづらかった。他に、引用部分には話し方を変えるなどの工夫があるとよりテーマが伝えわりやすかったのではないか。

タイトルは「あたしとけむしの物語」とあるが、いまいち虫との関連性が弱いようにも感じた。虫が好きという蝶子のキャラクターや「虫めづる姫君」についての言及はされていたが、虫に関するエピソードがもう少しあっても良かったと思う。

この劇を通して、女性の生き方の自由について考えさせられた。終戦後、女性たちは参政権を得たりジェンダー問題にも着目したとてもテーマ性の強い作品だったと思う。

金沢泉丘高校のみなさん、お疲れ様でした。

11 金沢大学附属高校 YELL

この劇は、セミの鳴き声と共に幕が上がり、主人公の早希を含めたクラスメイトたちが授業を受けているシーンから始まる。様々な生徒からそれぞれの視点が示されている、とてもリアルな高校生の姿、少しずつ早希から離れていく応援団員の人たちからは、とてもハラハラさせられた。誰もが一度は経験したことのある、仲間割れの起こっているこの作品は、まるで「青春ドラマ」を見ているような印象を受けた。それぞれのキャラクターの個性が際立っており、とてもまっすぐなセリフや行動により、私たちはだんだん引き込まれていった。この作品の印象として強く残っているものは、夏目漱石の「草枕」の冒頭の言葉である「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」である。この言葉はこの作品の序盤・中盤・終盤にそれぞれ出てきたセリフである。この言葉と今回の作品は重なる部分が多く、難しく感じる言葉の意味も、しっかりと説明されており、ストーリーが進むにつれて意味をよく理解できた。

この作品のテーマは「青春」だと考えた。この青春の中には、この作品の題名でもある「YELL」や「団結」「生き方」「仲間意識」が含まれていると考えられる。健成高校の応援団を舞台とし、進んでいくこのストーリーでは、初の女団長になった主人公早希は応援にかける思いが強すぎるがために、団員の意見を無視して進めていくシーンから、カツヤやレンを含めた団員たちは応援団としてやる気を失っていく。また、スグルのセリフは、この応援団の仲間たちが離れていく大きなきっかけだったと思う。それぞれの登場人物の核心をつくセリフにより、それぞれ言動が変わっていった。スグルが応援団にアドバイスする際のセリフは嫌味たらしいセリフで、応援団の雰囲気は悪くなり、団員の士気が下がった。だが、何もしようとせず団長の陰に隠れていた副団長のジュンペイは、スグルのセリフがきっかけで自分から行動を起こし、再び応援団が活動することになった。スグルに対し、応援団の人間関係を悪くしただけという意見もあったが、彼は良くも悪くも団員たちの気持ちや言動を変えるキーパーソンだった。団員の心が離れていき、早希が一人になるシーンでは、カツヤ、スグル、ジュンペイ、レンの4人のセリフの声がエコーで流れ、何度も繰り返し音量も変化することで早希の心の中でセリフが渦巻いている様子が伝わり、同時に中割幕を閉めることで早希の心が閉ざされていくことが示されていた。演舞のシーンは全員の動きが揃っていて見栄えがし、見た人の心を圧倒した。それぞれのキャラクターの心情の変化や成長がとても分かりやすくなっていた。

全体を通してこの作品は、人との関わり方、生き方について深く考えさせられた。決まった正解なんてものはないが、自分の今の在り方について一度考えてみたいと感じた。またキャストの演技や音響、照明は工夫されている点が多く、これからの部活動で学ぶっことの多い劇だった。

金沢大学附属高校のみなさん、お疲れ様でした。

12 小松高校 味噌汁屋

この劇は、味噌汁屋を営むせつが道行く人に味噌汁をすすめているところから始まる。舞台上にある味噌汁屋の建物は、キャストが舞台からはけずに隠れていられるようになっており、他にはベンチ、松の木、花壇などが昔ばなしの世界のようだった。一緒に店を営むしげとその娘、かよとの会話ではとても和やかな雰囲気が感じられた。しかし、啓と出会ってからのせつは、どんどん愛に狂っていくようで恐怖を感じた。作品の特徴として、登場人物とは別に「案内人」という狂言回しがおり、明るい曲とともにゆがんだ人間関係を味噌汁に例えて話していて、どこか違和感があり不気味さが増した。特にせつと啓の間に悠恵が登場してきた時は不安になるような説明をしていて、日常からどんどんこじれていくことがよく分かって展開が気になる劇だった。啓がさりげなくかよに話した花言葉の意味が最後まで人間関係のこじれに関係してきて、直接愛を伝えるのではなく、花言葉にたとえる愛は重く、もっとドロドロした関係に見えた。

この作品のテーマは、二つ考えられた。一つ目は「欲望」だ。それぞれ、せつ、啓、悠恵が欲しいもの、やりたいことが違っていて、啓を幸せにしたいせつと、せつより悠恵を愛している啓と、姉のせつの幸せを願う悠恵。啓の心変わりがせつのお味噌汁を飲まなくなっていくという表し方であり、分かりやすかった。二つ目は「恋と愛」である。恋を優先させてしまったせつは、嫉妬のあまりに啓を殺し、悠恵は間接的ではあるが姉のせつに罪を犯させてしまった。愛に忠実な啓は、せつに殺されてしまった。愛は人を狂わせてしまうのである。

この作品で印象に残ったシーンは、せつが啓を殺すところであろう。赤いホリゾントで首をしめるシルエットが、とても残酷で悲劇的だった。ここで舞台装置の効果が生きていた。味噌汁屋の後ろに立つ松の木、シルエットが右側にあるだけで舞台のかたよりを回避することができていた。

「せつにとって味噌汁を出すこととは」「悠恵にとって姉の存在とは」を通して、自分自身にとって大切なものや自分の欲望を考え直すきっかけを与えてくれる劇であった。味噌汁を出すことしか自分にできることはないと言うせつは、味噌汁を飲んでもらうことで自分が認めてもらえる気がしていたのではないか。自分の存在意義や、人のためにできること、したいことも含めて、人生を考えていくべきだと感じた。

小松高校のみなさん、お疲れ様でした。

13 星稜高校 またこの空の中で

幕開けと同時に始まるアナウンスとこの劇の主役である姉妹に声をあげる観客ら。その中、舞台中央で一際存在感を放つグライダー。序盤の演出に私たち観客は本当に圧倒された。アナウンスと共に姉妹が入場し、グライダーに乗る。グライダーを上昇させたときに動かした背景の山とライトは、それぞれ見る側に状況をわかりやすく、そしてこちらをライトで照らすことで注意をひきつける効果がとても出ていると思った。

グライダーに搭乗した姉:リサと妹:アカネは無事離陸するも巻きこまれた嵐によって知らない土地に墜落してしまう。二人は合計4つの地点に降り立つことになるのだが、私は4つの地点の場面それぞれに違うテーマが込められていると思った。最初は「ゴミ捨て山」、ここでは3人の廃品回収の男たちが老婆3人を縄で縛りつけており、観客を驚かせる展開となった。この場面は、役に立たなくなった年老いた親を息子が山に捨てに行くという昔の「姥捨て山」を題材にして、「ゴミ捨て山」を創った意図を感じた。老婆たちが語ったように、勝手な基準で何も生み出さない者は価値がないという「現代社会の風潮への批判」があると思う。また、廃品回収男の独特な話すテンポ、老婆たちの演技がよく作り込まれている印象が強かった。次の「女王様の法廷」でも黒いドレスを身に纏った裁判長、コミカルに裁判長に返答をする陪審員たちがテンポよく劇を進めていき、見ている側に楽しさを感じさせた。舞台装置も城の一角のようで、ユニークだったが、裁判長と陪審員の役と相俟って殺伐とした雰囲気を醸し出していた。テーマは「ゴミ捨て山」と重なり、フリーターが社会のゴミだと認識することへの批判。さらに付け加えて裁判長と陪審員たちの意見が絶対でアカネの客観的意見には耳を傾けなかったシーンから少数派には賛同しない多数決民主主義への皮肉も入っていると感じられ、見事だった。「夢の島」の場面では、夢喰い人という化物が登場する。アカネがここで今までの出来事を思い出し、リサに問いかけるシーンは不穏な空気を感じさせ、照明をこれまでより、比較的暗くしたことであやしい不気味さをだし、夢喰い人の衝撃的な展開に観客をあっという間にひきこんでいった。夢喰い人は、医者の夢をおどろおどろしく食べてしまい、そしてリサとアカネの夢までも食べてしまおうとする。夢喰い人の演技は動作を作りこみ、人型の小道具を使う動作が「夢喰い人」というキャラクターを完成させていて素晴らしかった。この場面では前2つのものとうって変わって「夢」というテーマを分かりやすく扱っていたと思う。自分の夢を叶えることの大切さや苦悩、そしてアカネの葛藤がよく見えたように感じた。そして物語はクライマックスへと入っていく。アカネとリサが最後に辿り着いた「カコモリとカコたち」の場面は幻想的なセットとともに進んでいき、アカネとリサの関係、絆の執着点にぴったりだと思えた。ここでリサはグライダーの練習中にすでに亡くなってしまっていたこと、アカネのためにリサは「過去」を解放し、アカネを助けようとしていたことが明かされる。アカネはいまだ現実を受け止めきれず、そのためにリサは「カコ」ではなく「未来」を見させるためにアカネに会いにきたのではないかと私は思う。アカネはリサと別れ、一人で姉のリサを「カコ」の世界に置いたままグライダーで「現実」のゴール地点へと帰ってきた。この作品は、劇中盤と終盤で観客の解釈が全く違うものになった。アカネは今まで夢を見ていたかのような、虚構と現実を曖昧にした作品でとても面白い作品だった。演出は照明、舞台セットともにまた、舞台上の設備を存分に使い、効果的で全く違う雰囲気を演出できていた。「カコ」のシーンでのスモーク、グライダーが飛びたったときのライトでの視点誘導、ダンスを取り入れた表現、どれもが魅力的だった。一人一人の役を壊さず、効果的に吟味されていた劇で、観客が目をひきつけられながら自分自身の夢、価値観、過去について考えさせられる作品だった。

星稜高校の皆さん、お疲れ様でした。

14 羽咋高校 夕陽のあたる教室ver.2

幕が上がるとセミの鳴き声が聞こえる。舞台は十個程度の机と椅子、教卓、ゴミ箱そして黒板には「めざせ甲子園」と書かれたその周りに沢山の文字や写真があることに気付き、ここは夏休みの学校の教室だと分かった。そこに一人の女子生徒が入ってきた。鈴木美奈だ。美奈の第一印象は口が悪くてタバコを吸うためイメージが悪いと感じた。彼女の家庭環境は複雑であり、それが理由で退学となり、放課後一人、学校に荷物を取りに来たという始まりであった。そんなイメージから始まった劇だが最後に幕が下りる時は彼女の印象がガラッと変わった。

彼女は教室の汚さを気にかけ、自ら掃除をしたりゴミ箱を片付けに行く。さらにはクラスメイトの体操服を干している様子を見て印象が変わった。美奈の一つ一つの言動には不良っぽさが伝わってきたが、整理整頓する姿とのギャップが感じられた。

私物を片付けている間に美奈はクラスメイトの机の中身を見ていく。一人ひとりの机の中を確かめるたびに反応がコロコロ変わり、黒板(客席側)にある座席表をパントマイムで表すことで彼女が何を考えていのかが分かり、観ていて飽きなかった。途中から出てくる美奈の元彼氏の回想シーンでは声の録音のみを使い、ホリゾントで彼氏のサトシと過ごした修学旅行先の沖縄をイメージする青で表現していたのがとても良かった。その間に美奈は静止していて思い出に浸っているように感じた。しかしホリゾントの光で逆光状態になり、美奈自身の表情を見ることができなかったので残念だった。

最後に本当の友達であるマリの思い出へと話は変わった。美奈とマリはアニメ部で「まんが甲子園」を描いていた。美奈が退学したあともマリが描きつづける約束をしていたという。しかし、美奈が退学する理由にマリも関係していることが回想シーンの中から見えてきた。回想シーンでは体育祭が行われている様子の音が聞こえるなか、美奈が何か問題を起こったマリとの会話があり、そこで事件が起きたと同時に赤色のホリゾントで表現され観ている側としてはドキリとした。私たちは美奈がマリの窃盗を隠し、かばって退学することになったことを知る。しかし、果たしてこれで良かったのか。最初のシーンでも体育祭が終わった後も誰かが窃盗を繰り返されていることが分かる。もしもそれがマリの仕業だとするならば本当にこれで良かったのか考える必要が出てくる。

劇の終盤、美奈はマリや高校生活を過ごした学校、そして今後の自分への言葉、私たちは美奈を見続けてきたからこそ、彼女の内面を知ることができ、ジーンとくるものがあった。

教室を出る直前に「めざせ甲子園」から「まんが甲子園」と書き直される。それはきっと私がマリの身代わりになったから、マリも頑張ってほしいという気持ちの表れではないかと感じた。そして今度は「まんが甲子園」から「ガンバレよ」と書き直された。この部分は,美奈が自分自身を鼓舞するために書いたはずである。教室を出る彼女の姿はとても寂しそうで、でもずっと見守ってきたいと感じた。

一人芝居だったが、演技や舞台美術、音響、照明を含めて多く学ぶところがあった。

羽咋高校のみなさん、お疲れ様でした。

15 県立工業高校 すいかパフェ

この作品のテーマは「何のために生きるのか」だと考えた。誰もが一度は考えたことのある「消えてしまいたい」や「死んでしまいたい」という気持ちを題材にし、登場人物がどのようにそこに至るまでの過程をたどって自殺という選択をしたのかを、一人の少女ほのかの慰めや激励などによって、それぞれが今一度自分の価値について考えるところが印象に残った。「死んでしまいたい」と考える人々はどこかで自分の価値に気付かず、自分を否定している。そのためこの劇で「自分の価値を考えてほしい」という投げかけが非常にストレートで分かりやすく、心打たれるものがあった。またSNSで集まったという人間たちの偶然というか、巡り合わせは、金沢龍谷高校や金沢辰巳丘高校の「あたわり」と通じているところがある。あの日、7人が出会ったのはまさしく「あたわり」であったのだろう。

この作品の面白さは、テーマだけではなく、脚本や個々のキャストの演技にも起因するものがある。物語冒頭のほのかやななじい、ドレミを除く4人は、何か理由があって集まったというのに少しもしゃべろうとはしないことから、彼らはなぜここに居るのだろうかという疑問や興味関心をひく存在であった。そこから自殺願望がある人たちの集まりであると分かった時、何とも言えぬ気持ちになった。そしてほのかはそれぞれ自分たちのコンプレックスを象徴するハンドルネームを発表する。それはすなわちほのかという少女に自分たちのコンプレックスも含めて存在を認めてもらえたということであり、生きる希望になったというのはすんなりと納得できた。希望の要因としては他にも、自殺が説教ぽくないというのも一つとしてあっただろう。劇中で中割幕を開けたシーンでは、それぞれの心のもやが晴れ、気持ちが明るくなったのではないかと感じた。またジメ君の演技も、本当ジメジメした雰囲気を出していて、とても伝わりやすいものがあった。こういった細かい工夫点から、面白い作品がつくられたのだと思うと、とても感慨深いものがある。 また、惜しいところもいくつかあった。他と自分たちのいる空間を区別しているはずの平台がほとんど無視されていたことや、脚本を読んだ時よりも登場人物の年齢が分かりにくかったり、3年後のシーンを入れた後に3年前のシーンを入れたことで、二人のベンチのシーンが3年前であることが伝わりにくかったことなどがあげられる。作品自体はとても引き込まれるほどの素晴らしいものであり、メッセージ性も強く、改めて自分の価値を考え直してみたいと思った。

県立工業高校のみなさん、お疲れ様でした。

16 金沢商業高校 珈琲豆と機関銃

幕が上がると同時に、白い光がある少女を映し出した。「夏休み。」ある少女、ハルカの口から出たこの言葉から劇は始まった。ハルカの人生が走馬灯のように繰り広げられる。散りばめられたギャグについつい笑ってしまう場面もあった。そんな明るいはずの劇がどこか不思議さをもっていた。

この作品のテーマは「無常観」や「命の重み」だと思う。劇中何度も繰り返される「ソーダ水の泡が弾けて消えていくように、みんなみんな姿を消した。」という言葉や、「8時15分」という言葉から、この物語の背景には“原子爆弾”があるのだと感じた。原子爆弾が奪ったたくさんの命の中にハルカの命もあった。ハルカが先生に提出した夏休みの作文の続きは白紙であった。彼女の夏休みは途中で終わってしまったのだ。劇中では、「彼女が生きていれば、こんなにもたくさんの人と出会い、こんなにも多くの幸せがあった。」と感じさせる場面が何度もあった。そういう未来の明るさが現実の暗さをひきだしていたために、私たちはその明るさと暗さの対比が作り出す不思議さにひきこまれていたのだと思う。

また、私たちが劇にひきこまれた理由はそれだけではない。とてもスムーズな場面展開や流れるような演出は私たちを飽きさせることがなく、むしろ「おもしろい」とまで感じさせていた。そして、舞台装置も独特で抽象的だったため、観客は「ここはどこなんだろう?」と想像したり考えたりすることができた。劇中、バイオリンの生演奏があった。その美しいバイオリンの音色は、優しさや懐かしさを感じさせるものだった。録音ではなく生演奏にしたことで、その時・その場でしか聞けないものとして、テーマである「無常観」を表しているようにも思えた。

物語の中に出てきた「三度の鐘」。はじめはハルカのこの先の人生で出会うかもしれなかった鐘として、「学校のチャイム」「映画館の鐘」「結婚式のベル」を指しているのかと思った。しかし、「一度目の鐘が鳴る。三度目の鐘が鳴ったら、すべてが消えてしまう」という教師の言葉から、一度目は「広島」、二度目は「長崎」に落とされた原子爆弾を指しており、そして三度目の鐘は不確かな未来で落とされるかもしれない「未来の原子爆弾」をあらわしているのだと感じた。未来の原子爆弾がどこかに落とされてしまったら、すべてが消えてしまうため、「戦争や争いごとはやめよう」という呼びかけのように思えた。みんなが消えていく事実に混乱を見せるハルカ。その様子からは、命が消えるあっけなさや、原子爆弾の残酷さが感じられた。原子爆弾が命を奪うのはほんの一瞬で、それはまるで、ソーダ水の泡がはじけて消えていくようなのだ。

この劇を見て、背景に原子爆弾があるということが分からなかったと言う人もいた。もしかすると他にもそういう風に思った人がいるかもしれない。それは、私たちの戦争や原子爆弾への関心がなかったり、経験したことがない分身近に考えられていなかったりすることが原因の一つではないかとも思う。でも、きっと、この作品を観た人の中には、戦争や平和について考えさせられた人もいると思う。素敵な劇をありがとうございました。

金沢商業高校のみなさん、お疲れ様でした。

17 小松明峰高校 幕末写真帖イサム

幕が上がると新撰組の衣装を身にまとった近藤勇が脇息に肘を置いて腰掛けていた。横には刀。そしてその周りには時代を感じさせる古いカメラ。奥の方に撮影場所。簡素だが、一目見て時代や場所が分かった。「新撰組の近藤勇」というと、日本史を学ぶ私たちからすると少し近寄りがたいイメージがあるが、この舞台は違った。怖そうな外見に反してとても優しい声、丁寧なしゃべり方のイサムに好感が持てた。 この劇のテーマは「どんなに強い人でも弱さを持っている」ということだと考える。みんなに恐れられている新撰組「近藤勇」は、周りになめられないように、必死に強い自分を演じていた。そんな中、一人で撮影待ちをしているイサムに不思議な出来事が起こる。最近、負け戦が続いていたため、イサムの心は少しずつ弱ってきていた。そんなとき、なんとイサム自身の影が目の前に飛び出してくる。影はイサムを翻弄するように舞台上を大きく動き回る。照明や音響で、影の動きをコミカルかつわかりやすく表現していたところがよかった。また、イサムの目の動きや影との間隔の取り方で、実際には見えない影の動きが分かり、視覚誘導が出来ていた。イサムは影との交流の中で、自分が今までプライドや武士としての誇りを貫き通すために自分を繕って生きてきたことを改めて知り、もう少し肩の力を抜いてもいいのではないかということを学ぶ。この劇のキーとして登場する「影」は、イサムの、新撰組としては決して見せることのない裏の顔、弱い部分等が形となって現れたものではないかと考える。イサムだけではなく、私たちにも人に見せたくない弱い部分があるのではないか。また、私たちは自分の「影」を必死に隠しながら生きているのではないか。人間が必ず持っている「影」について、とても考えさせられた。

ところで、この物語の主人公はなぜ数百年も前の人物である近藤勇なのだろうか。それは、昔の人も私たちのようにいろんな悩みをもって生きていたからではないか。悩みは時代や性別、環境に関わらず、人間誰しもが必ず持っているものだ。現代人としてそれを表現するのももちろん良い。しかし、私たちが生まれる前から、同じようなことに悩み向き合いながら生きてきたイサムたち先人のありかたから学べるものはとても多かったように思う。日々様々なことを悩み考えて生きている私たちをとても勇気づけるとともに、あたたかいヒントをもらえたような劇だった。

小松明峰高校のみなさん、お疲れ様でした。

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